不妊について

不妊体験談「ふぁいん・すたいる」

「現在・過去・未来の不妊体験者を支援する会」のFineには、いろんな方が参加しています。
多くの人は口をそろえて「自分が不妊でつらかったことが忘れられない」と言います。
そして「少しでも、同じように悩む誰かの役に立つのなら」と言って、サポートメンバーとして一緒に活動をしている人もいます。
スタッフとして、とてもうれしく、ありがたいことです。

不妊治療の末、治療をやめることを選択したFineスタッフの私自身、「もしも自分が妊娠して、出産していたらどうだっただろう?」と、時折考えます。

「みんなみたいに『不妊で悩む人の役に立ちたい』と言えただろうか。それとも不妊のことなんてきれいさっぱり忘れてしまって、ママ仲間とのつながりだけを大切にして生きていくだろうか?」

…その問いかけを自分自身にするたびに、みんなに心から「ありがとう」と思うのです。そして次に「もし出産をしても、ある意味“終わらない不妊”を、どうしたら自分の味方にできるのだろう?」と、考えこんでしまうのです。

「不妊」って、なんなのでしょう。皆さんにとってはどうですか?

このコーナーでは、それぞれの「不妊ストーリー」を、「ふぁいん・すたいる」と題してご紹介しています。よかったら、あなたも自分自身の「ふぁいん・すたいる」も、ぜひきかせてくださいね。  (スタッフ 松本)


仕事をする私の不妊治療
USAKO さん
男性不妊の夫と歩んだ日々
ゆきえ さん
不妊治療と仕事の両立
上野真樹子 さん
不妊の自分と向き合って
森本千春 さん
不妊を乗り越えて
鈴木 さん
不妊治療と周りとの関係
丹野みどり さん
10年間の治療を経て感じること
風子 さん
それは“もしかして不妊?”からはじまった私たち夫婦の不妊治療波乱万丈記
小宮町子 さん
38歳で治療再開して感じたこと
はるはる さん
管理職として働き、44歳で妊娠・出産。通院時間の調整に加え、部下の妊娠報告に心が揺れて。
野曽原誉枝さん・自営業
東京で治療を続けるために退職。40歳で出産後、二人目の治療にも悩みました。
山田恵美子さん(仮名)・会社員
治療を体験して実感した支援される側の気持ち。企業へ向けて不妊治療の理解を深めるため活動中。
永池明日香さん・会社員
キャリアをあきらめて、探した自分の居場所。カウンセラーとして、仕事と治療の両立を支援。
堀田敬子さん・公認心理師
不妊治療をやめた末の妊娠・出産。 「でも、心のなかの“不妊症”は終わっていません」
エルフェさん

「不妊症」を辞書でひくと「妊娠しない病症」(広辞苑)と載っています。「不妊症」は果たして病気なのでしょうか? 子どもが欲しくて積極的に病院通いをする、こういった場合はやはりひとつの病気として、社会的にも手厚い保護が必要だと思っています。

でも、ここではあえて、当事者の「心」の問題として考えてみたいと思います。子どもを望まない夫婦には、不妊は疾患ではないはずです。例えば明らかな不妊原因を抱えていたとしても、子どもが欲しいと願わなければ、その状況に気づくことなく過ごしている人もいらっしゃるでしょう。ある時妊娠したいと思い、それが叶えられないと知った時はじめて「不妊症」という言葉が浮かんでくるのです。

昨日までは病気じゃなかったのに、今日からは治療を要する疾患? なんだか不思議な感じですね。一歩進んで不妊検査を受けたとします。夫婦共に調べても原因のわからないことも多々ありますよね。とりあえず治療は受けてみるけど、妊娠しない・・・。そこで子どもを「産まない」(「できない」でなく)という選択をする。そうすればもうその夫婦にとっては「不妊症」ではないのです。

私自身ずっとこの「不妊症」という言葉に縛られていたように思います。子どもができなかった間、特に婚家においていろいろな辛いことがありましたが、周りには「まだ夫婦2人の生活を楽しみたいの」と言っていました。もちろんその気持ちは本当ですが、「子どもは?」といわれるのが嫌で予防線を張っていたのも事実です。対外的には“子ども要らない夫婦”、内面は“不妊症?と悩む夫婦”、なんともはっきりしない状況でした。でもこのような状況こそ、不妊症という言葉の一側面のようにも思います。

そんな私が「私って不妊症?」と認識したのはいつだったでしょうか。私は結婚後3年間に、2度の流産を経験しました。その後全く妊娠しなくなったため、6大基本検査といわれるものを受けました。夫も検査を受け、夫婦ともども結果に問題はなかったのですが、「子どもができるよう頑張りましょう」と担当医師に言われ、タイミング指導からの「治療」が始まりました。ここではじめて「これって不妊症ってことなの?」と認識したのです。クロミフェン、hCG療法を1年ほど続けました。それでも妊娠しない・・・だんだんと追い詰められていき、私たち夫婦はそこで夫婦2人の人生を選択しました。

決断時期が早いと思われるかもしれませんが、2度の稽留流産、掻爬の経験で、もう妊娠は怖いという気持ちのほうが大きく、これ以上治療を進めてまで頑張ろうという気になれなかったのです。すると本当に心の持ち方ひとつなのですが、「不妊症」という言葉の重い鎖から解放されました。病院通いもやめ、もともと興味のあった司法関係の資格を取るために猛勉強を始めたのです。すると半年後、幸運にも妊娠し、出産しました。

こうして私は事実上「不妊症」ではなくなったわけですが、今でもその言葉に敏感に反応してしまいます。今、ママ仲間は私の不妊時代を知りません。言わなければわからないことですから。でもあえて不妊カウンセラーという資格をとり、またこのような活動(Fine)にぜひ参加したいと願うのは、やはり私が心から不妊というものを乗り越えたわけではないということなのでしょう。乗り越えるというよりも、この経験が他でもない今の私自身を作り上げているものであることを受けとめ、それごと抱きしめている・・・そんな感じでしょうか。

この「不妊症」時代は人生で一番辛い時期だったことに変わりはありませんが、この経験によって得たものもたくさんあります。どんなに努力しても手に入らないものがあると知ること、自分と向き合うことの大切さ、マイノリティといわれる人々への理解、そこから派生する他人への思いやりや優しさ、そしてなんといっても夫との深い絆・・・。

これから治療を始める方、治療中の方、治療を終えられた方、治療を選択されない方・・・皆さんにとって「不妊症」とはどういうものでしょうか?

「養子という選択もあるということを、多くの人に知ってもらいたいです」
ゆいさん

私の治療歴と今の私

私は、不妊治療を5年ほど続けました。IVF(体外受精)9回目にして治療を打ち切る決心がつき、意外にもあっさり打ち切ることができました。今から4年ほど前のことです。妊娠は2度しましたが、子宮外妊娠と繋留流産に終わりました。7回目のIVFくらいからは、気が向いた時期にしか病院には通っていませんでした。良い結果が出ず、そろそろ諦める時期が来ていたことは自覚していましたが、決心がつかず、ずるずる治療を続けていました。

それが何故か、9回目のIVFをするとき、治療はもう最後にしようと思えたのです。判定日の結果が出る前から自分でダメだということは判っていたので、病院で先生から「残念ですが」と言われた時も「もう、これで病院通いすることもないんだ」と楽になれたという気持ちが強かったです。しかし、子どもは育ててみたかったので、養子を迎えるという選択をしました。その頃の私は産むことはできなかったけど「妊娠はしたのだから良いじゃない」という気持ちだったように思います。

最初の病院?不安?ネットとの出会い

最初に通った病院は、仕事をしながら自宅近くの総合病院でした。タイミングから始まりAIH(人工授精)を9回受け、先生から不妊専門クリニックへの転院をすすめられ、IVFへステップアップするために都内の不妊専門クリニックに転院しました。それと同時に仕事はやめることにしました。

この頃はIVFをすれば必ず妊娠すると思っていたので、新しいことを始める大きな希望と少しの不安を抱えていました。いざ治療が始まると、ベルトコンベアーに乗せられたみたいに、治療のサイクルに入っていきました。誰かに先のことを聞きたくても不妊友だちもなく、悶々とした日々を過ごしていました。看護師さんに聞きたくても、忙しそうでしたし、自分が何を聞きたいのかさえ判らず、不安でいっぱいになりました。

一度だけ思い切って看護師さんに採卵時の痛みについて聞いたことがあります。「個人差がありますからね。それほどでもないようですよ」と言われ、よく判らないままそんなものかと自分を納得させましたが、不安の解消にはなりませんでした。私は結構小心者ですので、自分からは切り出せないことが多く、この頃は不安のあまり、たびたび手がふるえるようになっていました。

今思えば、この時にカウンセラーという存在を知っていれば、相談出来たのにと思います。初めての治療の時は、特に不安が強いものですから、患者から要望がなくても、看護師さんが何らかの声を掛けてくれるだけで、少しは安心できると思います。

そんな時、インターネットで不妊の掲示板に出会い、目の前がパッと明るくなった気がしました。自分のほしかった情報がそこにはいっぱいあったからです。特に、経験者の話は参考になりました。今まで自分だけで抱えていた問題を、いろんな人と語り合えることが嬉しく、どっぷり浸かりました。自分の中で、不妊は恥ずかしいこと、人前で話すことじゃないと思っていたふしがありましたが、いろんな書き込みを読んでいる内に、「恥ずかしいことじゃないんだ」「仲間って良いな」という思いに変わっていきました。

オフ会にも積極的に参加して、いろんな方に他の病院の話を聞いているうち、紹介されて何も知らずこんなものかと思い通っていた病院が、あまりにも機械的なことに気づかされました。3回目のIVFで子宮外妊娠したのを期に、もう少し雰囲気が家庭的な病院を求めて、個人の不妊専門クリニックに転院しました。その病院は、前のクリニックに比べ規模はだいぶ小さいものの、1人の先生にずっと診てもらえるので、気持ちが楽になりましたし、せかされている感じもなく、質問もしやすかったです。同じ先生に診てもらえるというのは、患者にとってとても安心できることです。卵だけを診るのではなく、自分を診てくれているという信頼感に繋がるからです。転院してかなり不安は解消されましたし、同じ病院に不妊友だちがいたことも、大きな支えだったかもしれません。

カウンセラーや第三者がいたら…

治療が長くなってくると、不妊友だちも増え、いろんな情報も入ってくるようにもなりますし、経験から学んだことも多く、徐々に不安はなくなってきました。しかし、いろいろな情報の中からこの方法で妊娠したと聞けば、それも良いかもしれない、別の方法もあると聞くと、そのほうがいいかもしれないと、戸惑うこともありました。掲示板やオフ会の話はどうしても噂話が多く、情報に惑わされる方も多くいることでしょう。私もそうだったかもしれません。漢方が良いと聞けば、漢方の病院に通い、胚盤胞で妊娠したと聞けば、それに賭けてみようかと、結局元の病院にまた戻ったりしました。そうしたことを体験して、第3者の立場できちんと根拠のある情報を与えてくる方の存在は大きいと思いました。

私にとってのカウンセラーは自分の考えを整理し、導き出してくれる人というよりも、情報を的確にアドバイスしてくれる人という意味合いが強いように思います。治療をしていた頃に専門知識を持っている方にいろいろアドバイスしてもらいたかったです。経験者であり、さらに専門知識を持った方なら、なお良いかもしれません。ピア(仲間)カウンセラーなら患者も身近に感じて、相談しやすいのかもしれません。

私が治療を行っていた頃には、カウンセリングという言葉自体がほとんど浸透していませんでした。中には受けた方もいましたが、それはまれな方だけでした。最初に行った病院は特に、工場のようで、言われるがままに治療が進んでいきましたので、せめて、初診の時にでも、今後の流れや治療法などを詳しく説明してもらいたかったです。養子を迎える、里親になるという選択も早い段階で聞きたかったと思います。

養子・里親について

私たち夫婦は、養子を迎えるという決断をしました。私は助産師をしていましたので、養子や里親についてある程度の知識があり、インターネットから「環の会」を知り、子どもたちを迎えることが出来ました。現在2人の子どもを養育しています。もし助産師でなく、インターネットも使えなかったら、里親登録をして子どもを紹介されるのを、今もひたすら待っていたかもしれません。

養子を迎える、里親になる、ということは治療の一つだと、私は考えています。子育てには体力が必要だと日々実感していますので、子どもを迎えてからは、もう少し早く治療をやめていればと何度も思いました。不妊治療を行ったことは後悔していませんし、治療真っ最中の方にはあまり受け入れられない問題だとは思いますが、早い段階で養子や里親になるという選択もあるということを知ってもらいたいです。

自分が子どもを産みたいのか、それとも子どもを育てたいのか、それを患者に今一度考えてもらえるように、医療機関や関係者が導いていくことも必要なのではないでしょうか。こういう選択もあるということを、多くの方に知ってもらいたいと思っています。

不妊歴10年の今だから思えること…「不妊仲間がいたから、ここまで来られました」
チエさん

不妊歴10年。現在も不妊治療を続けています。

私たち夫婦は結婚後すぐに子どもが欲しいと思っていました。「結婚すれば子どもはできる」それが自然だと思っていたし、疑いもしていませんでした。

結婚後2年が過ぎ、やっとの思いで病院の門を叩いたのは、近くの産婦人科でした。そこで一般的な検査を行ない、原因が見つからず…。というよりも当時の先生に「卵管造影後、半年は妊娠しやすい」と言われ、私はすっかりその言葉を信じ、治療をせずに1年以上も費やしてしまいました。今思えば本当に後悔です。

その頃の私には誰にも言えない醜い経験があります。主人の友人から「子どもが生まれましたハガキ」が届いたのです。とっさに、そこに写っている赤ちゃんの写真をクシャクシャにしてしまったのです。我に返った時は、時すでに遅し・・・。このまま捨ててしまおうかと数日悩み、結局はアイロンで直し、主人に謝りました。

この頃の私は本当に心が悲鳴をあげ、病んでいたのだと思います。今振り返っても一番辛い時期でした。仕事も辞め、誰にも不妊のことを話すことができず、今のようにパソコンで人と交流することもなく、自然と家に閉じこもりがちになりました。スーパーに行っても子ども連れや、ベビーカーを押しているお母さんが眩しくて、どこに行っても、何をしていても「妊娠」が頭から離れませんでした。そして毎月きっちり生理がやってくる、その繰り返し…。

と同時に、まわりからお決まりの言葉。挨拶のように「子どもは?」と聞かれ、私は顔で笑って心で泣いて、いつもイライラしていました。日本って何て遅れているのだろう・・・アメリカならセクハラなのに…。でも私も「治療しているけど、赤ちゃんができないのです」の一言が言えなくて、こんな矛盾した自分も情けなかったです。不妊治療って恥ずかしいことじゃないのに女心なのか?赤ちゃんができないと思われたくないというプライドなのか?

私たち夫婦の足並みは、最初から揃っていたわけではありません。特に AIH(人工授精)にステップアップするのに、3年かかりました。原因不明というよりも、原因なしと言われたので、余計に時間がかかってしまいました。そして私は、隣の市にある不妊外来のある病院に転院しました。この時点ですでに結婚後6年が経っていました。ここで出会った先生は初めて私の気持ちを受け止めてくれました。後で知ったのですが、都内の不妊専門クリニックから週3回、非常勤で派遣されている先生でした。私の年齢、結婚年数、さらに再び検査の結果、やはり原因不明で、それが実は一番大変(厄介)なのだと、教えてくれました。

「積極的に治療しましょう」と言ってくれたのが、本当に嬉しかったです。これで妊娠できると思いました。しかし、そう現実は甘くはない。述べ6回のAIHで結果が出ませんでした。この頃はパソコンもあり、自分なりに勉強し、先生の意見も合わせてAIHは6回までと決めていました。6回という残りのカードが減っていくたびに、焦り、苛立ち、不安、全てに支配されていたように思います。でも、前の病院での「原因がないので大丈夫」と言うだけで親身になってはくれず、放置されていた状態よりは、まだ何か「治療はしている」という安心感がありました。

結局IVF(体外受精)にステップアップをしたのは1年後。AIHでお世話になった先生が勤務する不妊専門クリニックに転院し、IVFを受けました。現在はすでに採卵が6回、胚移植は8回に至っています。当初、自分がIVFまでするとは思いもしませんでした。でも治療が進むたびに、決意というか、不安は全くなく、むしろ決心してからは「今度こそ妊娠できるのだ」と、期待に胸が膨らんでいました。

IVFにステップアップ直前に、初めて不妊サークルの「オフ会」に参加しました。今でもあの日の事は忘れられません。20人くらいの仲間が集まり、明るく(笑)不妊の話ができるのです。あまりにも刺激的で、こんな世界があるのだな〜って心から感激しました。これを機会に仲間の輪がどんどん広がり、家に閉じこもることがなくなりました。

もしも今現在、同じように一人で苦しんでいる人がいたら「とにかく外に出ておいで」と言いたいです。外とは言ってもオフ会に限らず、ネット(掲示板)でもいいのです。同じ思い、同じ経験をわかり合える仲間がたくさんいるからです。私はこうして知り得た友だちなくしては、治療を続けることはきっと、いや絶対にできなかったと思います。なぜなら、マイナス判定の撃沈後は、落ち込むとなかなか這い出せない…。努力もゼロ、お金もゼロ、気力もゼロ。一人で乗り越えるだけの精神力は持ち合わせていません。いくら主人が優しくしてくれても、残念ながら私の心にはあまり届きませんでした。逆に「原因は自分なんだ」と烙印を押されたように辛かったです。

友だちは、そんな気持ち全てを理解し、共感し、励まし、一緒に涙し、時には叱ってもくれました。本当に「私は一人じゃないのだ」って、また笑顔になれるのです。普通に子どもを授かり産んでいたら、知り合えなかった友だち。そう思うと不妊治療も悪いことばかりじゃないのかな?

そして、一緒に励まし合った友だちの中にはすでにママになった人もいます。もちろん今でも大切な友だちです。「陽性反応」って、受験のように定員数はないのです。いす取りゲームのように奪い取るものではない。そんな風に思えるようになったのも、友だちの存在が大きかったです。

「本当に子どもが欲しいのか?」の問いかけに自問自答しながら、ここまで治療を続けてきました。答えはやっぱり欲しい…。理屈ではない、意地でもない、まして老後のためでもない。私は愛する主人との間の子どもが欲しいのです。向井亜紀さんの言葉をお借りするなら、「主人のDNAを残したい。そして、絶対にパパにさせてあげたい」、その気持ち(想い)だけで、辛い治療も続けています。この先どうなるのか? 全くわかりません。主人との今の生活も十分幸せだし、頭の片隅には「二人の生活」があるのも本当です。でも、今は一切に蓋をして、できる限り流れに身を任せてみようと決めています。

「流される」、ちょっと不思議な言い方ですが、以前のように「頑張る」よりは少し肩の力を抜いてみる。どんなに頑張っても結果が出ないと、もう頑張れないのが正直な気持ちです。だからと言って諦められないなら、流されようって思いました。この春の3回目の転院を機に、努力はするけど頑張ることをやめたのです(笑)。その流れ着いた場所が「妊娠」であるといいな。

そして最後に、もうひとつ。

気持ちのバランスが取れない時、撃沈直後はなおさら「おめでた話」が辛く、嫉妬をしたり、感情を剥き出しにし、またそんな自分の心の狭さ、醜さにとても落ち込みました。でも、「人間だから仕方がない、当然の心の動き」と開き直ってからは、逆に周りのことが全く気にならなくなりました。そんなことに落ち込むよりは、自分のペースで、時には休憩しながら、悔いのないよう前に進めたらいいと、今は思えるようになりました。

数年単位の、治療・中断・治療再開を経て…「不妊という経験は、私にとって財産です」
ぶーすかさん

不妊症と診断されて

私が初めて不妊を意識したのは、結婚する数年前のことです。何カ月も生理が来なかったので、一人で近所の産婦人科に出向きました。診察は腹部エコーと経膣エコー、それに血液検査もしました。生理が来ないと訴える私に、ドクターは「生理を来させるのは注射1本で簡単なこと。ただ、根本的に治すのは非常に困難。まだ独身なので、もう少し様子を見ては」と言いました。私はただそれに従うだけでした。幸い、まもなく生理が始まりましたが、検査結果を聞きに行ったとき、衝撃的なことを言われました。「君、妊娠しにくい体質みたいだね」と。詳しい説明は聞きませんでした。いえ、恐くて聞けなかったのだと思います。それ以来、病院へは行きませんでした。

それから数年後、結婚して半年経った頃、同時期に結婚した友人たちが次々と妊娠していきました。私はとても不安になりました。その頃、生理不順がまたひどくなってきていましたし、結婚する半年前からつけていた基礎体温表は、ずっと低温層でガタガタでした。そこで、結婚後初めて産婦人科に出向きました。

最初に行ったのは小さな個人病院で、無排卵と小さく萎縮した子宮を指摘されました。近所で不妊症を診てくれる総合病院があると聞いたのですぐ転院し、この病院でハッキリと不妊原因を告げられました。

今まで、漠然としか“不妊症”を意識してきませんでしたが、頭の中でただ考えているのと、実際にドクターに不妊原因を言われるのとでは、ショックの大きさが違いました。ただ、全く想像していなかったわけではなかったので、すぐに立ち直れたのが救いでした。

落ち着きを取り戻した私は、買ったばかりのパソコンで、あまりやったことのないインターネット検索をしてみました。不妊について何も知らなかった私は、同じような悩みを抱えている人が全国にたくさんいることに安心し、ドクターには聞けなかった不妊に関する情報を読むことに夢中になりました。しかし、治療の成功確率なんて全くわかりませんでしたから、排卵障害だけが原因と診断されていた私は、そんなに妊娠までの道のりは遠くないと思っていました。

話を聞いてもらうということ

検査でプロラクチン値が少し高かったので、最初はパーロデルを半錠ずつ服用しました。しかし、薬の副作用に苦しんだので使用を打ち切りました。そこで先生から排卵誘発剤を使う治療方針への変更を提案されたので、クロミッドに切り替えることになりました。クロミッドは、最初の頃の周期ではかろうじて効いてくれましたが、薬の数を増やせば増やすほど、周期が安定しないことや排卵しないなど裏目に出るような結果ばかりでした。そんな状態に嫌気がさし、総合病院に治療を休むことを告げました。それから半年後、気を取り直して別の不妊治療を行なっている病院に転院して、検査を受け直しました。PCO(多嚢胞性卵巣症候群)と診断されました。クロミッドも全く効かず、育たない卵胞を確認するだけの診察が続き、自分が精神的に崩れていくような気がしました。

その頃、私は不妊症で悩む人を対象とするヨガ教室に通い始めていました。先生は看護師で不妊カウンセラーなので、思い切って相談してみました。今までの治療経緯を説明し、辛い思いを吐き出しました。先生には、しばらくの間、治療を中止することをすすめられました。そして、今までの生活を振り返り、体質改善を試みることの大切さを教わりました。もちろん、ヨガ教室の先生のお話ですから、医学的根拠が証明されているわけではありません。しかし、当時の私はそれで救われたのです。病院の不妊治療以外に、自分でもやれることがあるということは、治療に追い詰められ、目標を見失い、疲れていた私には大きな救いだったのです。

私は、一緒にヨガを習っている不妊仲間たちとともに、ヨガや食事などで少しずつ体質改善を始めていきました。どんどん精神的に楽になっていくのが自分でわかりました。精神的に追い詰められていた時の私は、主人から「精神科へ行こう」と言われるほど、おかしな行動をしていたようですが、それがなくなりました。街などで妊婦さんを見るたびに涙し、友だちの妊娠報告に手が震えるほど辛かったのが、不思議とそれらを受け入れることができるようになっていました。

このヨガ教室には4年通いました。最初の3年、病院の不妊治療は受けませんでした。でも、生理の状態はどんどん良くなっていったし、健康的な体に変わっていくのを感じていました。決して、妊娠を諦めたわけではありませんでした。遠回りかもしれないし、不妊治療医から見たら、早く治療を受けたほうがいいと言われたかもしれません。けれど、私は自分自身を取り戻すのに必要な時間だったと思っています。

治療を再開して

ある日、主人が言いました。「40歳までがタイムリミットだから」と。それは私にとっては爆弾発言でした。あと2年しかなかったからです。私は迷いましたが、不妊治療を再開することにしました。精神的にも安定していましたし、体調も悪くありませんでした。早速、病院探しをしました。少し遠かったのですが、県内で有名な不妊治療施設へ行くことを決意しました。待ち時間がひどく長いことをのぞけば、スタッフの対応も悪くなく、ドクターはとても優しくて、話をよく聞いてくれました。今まで通った病院とは比べものにならないほど、恵まれた環境でした。

しかし、ここでまた問題が。主人がなかなか検査を受けたがらなかったのです。もちろん、前の病院で受けたことがありましたので、すぐにでも受けなくてはいけないという状況ではありませんでした。でも、問題は検査結果ではなく、主人の精神的な問題でタイミング療法が行なえないという点でした。タイミング療法が行なえないということは、人工授精をするということになるのが普通だと思います。人工授精をするためには、感染症の検査などを受けないといけないので、私は数少ない排卵のチャンスが訪れても、涙を飲んで諦めるか、ダメ元で主人に夫婦生活をお願いするしかありませんでした。

自分からタイムリミットを言ってきたのに、検査をなかなか受けてくれない主人に苛立ちを感じました。でも、ドクターは「男性は仕事などのストレスがあって、なかなか治療に気が向かないこともあるよ」と決して主人を悪く言うことはありませんでした。その言葉を聞いて、私は主人の気持ちをあまり理解していないことに気づきました。後で主人に聞きましたが、タイムリミットを言ったのは、私が妊娠を諦めていないかどうか確かめるだけだったようです。なにせ、3年も治療をお休みして、健康オタクと化していましたから。

以前治療を受けた時から3年も経つと、治療方法もいろいろと新しくなっているようでした。不妊に関する本などから仕入れた情報は、以前なら半ば押し付けのように主人に説明していたのですが、主人はどんな病気も“お医者様におまかせ派”なので、情報収集に興味がありません。なので、どうしても知っておいて欲しいことだけ話し、あとは自主的にたずねてくるまで待つことにしました。

治療を再開した病院は、スタッフやドクターに特に問題を感じていませんでしたが、夫婦で話し合った治療方針とズレが生じてきましたし、長い待ち時間にとてもストレスを感じるようになったので、転院を決意しました。転院を考えている病院には、あれほど検査を嫌がっていた主人が、一緒に説明会を聞きに行ってくれました。これはとても嬉しかったです。

主人とは仲が悪かったわけではありませんが、治療に関してぶつかることが多かったように思います。治療の話がまるでタブーのようになった時期もありました。でも、少しずつではありますが、お互いに歩み寄ることができるようになったと感じています。

不妊という経験は財産

今思うのは、私はいつも誰かに支えてもらって不妊と戦ってきているのだな、ということです。決して一人ではないのです。今後、きっと主人は私を支えてくれることでしょうし、私も主人を思いやることができるように思います。

いつか子どもを授かったとき、あるいは二人の生活を選んだとき、不妊という長いトンネルから出ることができたときには、今までの苦しい思いが頭を駆け巡ることでしょう。でもその中には、支えてくれた皆の顔も一緒に浮かぶはずです。

もし不妊でなかったなら、私は間違いなく場の雰囲気を読めないおばさんになったことでしょうし、友だちも少なかったと思います。けれど今は、相手の気持ちを思って言葉を選ぶことができますし、同じ悩みを抱える友だちがいっぱいいます。また、不妊という悩みがなければ、主人ととことん話し合うことはなかったことでしょう。主人と今でも新婚の頃と変わらず仲がいいのは、もしかして不妊という悩みのおかげかもしれません。

そう考えると、今のこの状況は決して不幸なんかではなく、今までの経験、これからの経験は全て財産になるのではないかと思います。けれども、このように考えられるようになった背景には、やはり人に話を聞いてもらえた経験と、ゆっくり立ち止まって考えることができた時間があったからだと思うのです。

昨年からFineのサポートメンバーとして、いろいろとお手伝いするようになり、Fineがカウンセリングの必要性を訴えていることに共感を覚えました。一人でも多くの人に、カウンセリングを受けたり、誰かに話を聞いてもらったりしてほしいと願わずにはいられません。

不妊治療施設の不妊カウンセラーの充実はもちろん、全国に不妊についての悩みを話せる環境を整えることは、とても重要だと考えています。そして、カウンセリングを身近に感じることができれば、不妊で悩む方々は現在よりもずっと心が軽くなるのではないでしょうか。

「“二人の生活”を選んでも、仲間とサポートしあえる。Fineは私に、居場所をつくってくれました」
和音さん

不妊治療をがんばっている知人から、私がよく言われるのは、「二人の生活を選択されたということは、子どもをあきらめることができたのですね」「もうふっきれたのですね」ということ。

もちろん、そういう人もいると思います。でも、「二人の生活」を選択している人が必ずしも納得の上で治療をやめ、子どもをあきらめているわけではありません。さまざまな理由から、自分の気持ちとは関係なく「二人の生活」を選択するしかなかった人もいるのです。

その場合、“あきらめたくない気持ち”と“治療をやめるとういう事実”にズレが生じ、自分の気持ちを治療をやめるという現実に無理に合わせなければいけなくなり、それが新たな苦しみとなることがあります。それは治療中の方が“治療をやめたいのにやめられない(あきらめられない)”気持ちに似ているかもしれません。“治療を続けたいのに(まだがんばりたいのに)あきらめなくてはいけない”のです。

治療中の人にさまざまな背景や事情があるように、「二人の生活」を選択した人もいろいろです。その中の1つの事例として、私が「不妊」という言葉を意識してから「二人の生活」を選択するまでの気持ちを書いてみたいと思います。

“不妊”かもしれない

私は31歳で結婚しました。まだ“不妊”という言葉を知らなかった結婚して数カ月の頃、姑や近所の人に「結婚が遅かったから、1年経っても妊娠しなかったら病院に行ったほうがいいよ」と言われました。私は、生理は順調、体の不安も全然なかったので、いきなり病院の話をされたことに驚き、「私がなぜ病院に?」と思いました。結婚して半年が過ぎる頃には、近所の人が「○○産婦人科が不妊にいいらしいよ」と教えてくれるのです。その時、「えっ?私って“不妊”なの?」と、初めて“不妊”という言葉を意識しました。

結婚が少し遅かったというだけで、周りに最初から“不妊症”だったかのように病院に行くことを勧められるのです。最初は「私はまだ不妊症かどうかはわからない」と思っていたのですが、周りの言葉にだんだん「私は“不妊症”なのかもしれない」と、結婚1年となる頃には思いこんでしまっていました。生理も規則正しく、基礎体温を測ってみれば低温、高温の二層にきれいに分かれ、不安な要因はないのに、周りの言葉で“不妊症”と思いこまされたような感じです。

結局、周りの言葉を聞き流せなかった私は、結婚1年で産婦人科を訪れることとなりました。それが不妊治療の始まりです。それから約5年間、不妊治療に通い、タイミング指導から人工授精、体外受精とステップアップしていきました。

不妊治療をやめたとき

体外受精による3回目の胚移植で妊娠できなかったときのことです。

「次は○月に体外受精をしよう」と夫と話しあい、そのつもりで体調を整えたり、リラックスできるようにと気分転換をしたりしていました。

そんなとき、ある事情により治療を続けることができなくなりました。プライベートなことなので内容は書けませんが、どうしても治療を続けることが難しくなったのです。

それはまったく予想していないことでした。私にとって“治療をやめるとき”は、“やるだけやってみて、もういいやと自分なりに納得したとき”だと思っていたので、想像もしていなかったような理由で治療をやめることになるとは思わなかったのです。その上、その理由に夫が少し関係していたので、夫婦二人で話し合ってなんとか方法を見つけるということもできませんでした。

しばらく悩みました。でも、悩んでもどうにもならないのです。自分の気持ちがどうであれ、治療を続けられない事実には変わりはないのですから。こうなったら、治療をやめる、あきらめる方向へ自分の気持ちを持っていくしかないのです。

その時の年齢が36歳、今の時代、まだまだ妊娠が可能な年齢です。通院していた不妊専門病院の医師も、妊娠の可能性は十分あると言ってくださっていて、それなのにあきらめなければいけないなんて…と、愕然としました。いろいろ考えたすえ、長期治療お休み期間に入るつもりになろうと思いました。この先治療を絶対に再開できないとは限らないし、とりあえず今は治療を休むということで、その状態を自分に無理やり納得させることにしました。

原因不明不妊なので自然妊娠の可能性がないわけではないのですが、私たち夫婦はセックスレスだったので、治療をやめるということは「二人の生活」を選択するということでした。

「二人の生活」を選択するということ

「治療中」から「二人の生活」への分かれ道があると仮定すると、多くの人はその分かれ道の辺りを行ったり来たりしているのではないかと思います。治療を長く続けている間にはもうやめようかなと悩んだり、いったん治療をやめていたのにまた再開したり。

また、不妊治療をするしないとは別に、「子どもが欲しい」気持ちから「子どもをあきらめよう」という気持ちへ、行ったり来たりしているのではないでしょうか。この“行ったり来たり”状態が長い人もいれば、一気に進むことができる人もいると思います。しばらく私も悩みましたが、「二人の生活」への道を進むことに決め、「治療中」の道へ戻ることはあきらめようと思いました。

でも、「子どもをあきらめる」ことはなかなかできないのです。そういう気持ちへ向かって進もうと思うのに、なかなか進むことができません。ちょっと進んでは何かの拍子に、やっぱり「子どもが欲しい」と気持ちが戻ってしまうのです。治療をやめてしばらくの間は「子どもをあきらめなければいけない」と考えていたため、そこに気持ちがついていかないことですごく苦しかったです。

また、周りはまだまだ私が子どもを持つことに期待している状態です。親切心もあって、不妊治療で有名な病院や子宝神社などの情報を教えてくれます。本当のことが言えなかったので、周りの言葉に合わせてがんばるフリをしなければいけなかったこともとても辛かったです。

そんな状態も時間とともに落ち着いてきて、だんだん「無理にあきらめることはない」と思うようになりました。実際に子どもを授かることはないかもしれないけど、「子どもが欲しい」と思う気持ちはずっと持ち続けてもいいのではないかと。自然にわきあがってくる気持ちを否定するのではなく、「私はやはり子どもが欲しいんだな」と思う気持ちをそのままに感じたとき、少し気持ちが楽になりました。

今の状態を無理なく受け入れることができるまで、無理に自分の気持ちを決めようとせず、その時その時の自分の気持ちを大事にしていきたいと今では思っています。

「二人の生活」〜Fineとの出会い

「二人の生活」を選択したといっても、私たち夫婦は二人での行動がほとんどありません(仲が悪いわけではありませんよ)。毎日、同じように家事をして仕事をしながら過ごしていくという状態は(私だけかもしれませんが)、将来に希望が持てず、考えるだけで苦しくなりました。

子どもがいるいないで人生の善し悪しが決まるものではないことはよくわかっているのですが、結婚して早いうちから子どもを持つための不妊治療一筋に暮らしてきたので、他のことをまったく考えていなかったのです。

それからはいろいろなことをやってみました。まずは何か夢中になれることを探そうと、もともと好きだった手芸や読書など、何でもやってみました。その結果、少しずつ楽しめるようにはなったのですが、すべて一人でやることなので何か物足りない気がしていました。

そんな時、このFineに出会いました。

それまでは、治療をあきらめ「二人の生活」を選択した場合、インターネット上の不妊サークルのようなHPに参加できなくなることがほとんどでした。そういったサイトを通じてできた友人が多かったので、参加できなくなることはとても淋しかったです。

Fineは、現在治療中の人だけでなく、治療により出産した人、二人の生活を選んだ人、養子縁組をした人など幅広くサポートする団体です。つまり私のように二人の生活を選択している人も含まれます。そんなFineの活動を一緒にやりませんか?とお話をいただいたとき、急に目の前が開けてきたような気がしました。

何を生き甲斐に暮らしていけばいいのか?というと大げさかもしれませんが、居場所も目的も失いつつあったので、Fineに出会えたことは私にとって、とても大きなことでした。

ほんのちょっとでも「子どもを授からない」ことをつらく感じたことのある、すべての方の居場所をつくりたいと思っているFine、スタッフとして活動に参加することで私の居場所をつくってくれたFine。私にできることは何かはわかりませんが、今度は同じような悩みを持つ人のために少しでも役に立てることがあればと思っています。

不妊治療以上に大変だった、40代の出産・育児。「それでも、子どもの成長はなによりの喜びです」
類子さん

遅い治療スタートでしたが、3年半の治療を経て、43歳で出産に至りました。その間、AIH-25回、IVF-12回(うち、ZIFT-4回、ICSI-1回を含む)。筋腫核出術やリンパ球輸血などもしました。

20代で結婚したものの、すぐに子どもが欲しいと思うことがなかったのは、周囲にはまだ子どもを持たない方や独身の方も多い時期でしたし、私の母は弟を39歳で出産していましたので、急がなくても大丈夫と、のんびり構えていたからかもしれません。

30代半ばで夫の実家に同居を始めると、子どもを早くつくりなさいという親族の声が一層大きくなりましたが、親や夫の病気も続き、あっという間に時間が過ぎていきました。しかし、さすがにこのままでは子どもは授からないのかもしれないと、自分自身が焦る気持ちになったのが40代目前。それから高齢の不妊治療開始となりました。

病院に初めて夫婦で出掛けた時には、すでに結婚13年が経っていて、お医者さまからは「早速AIHからしましょう。検査もそれと平行して」と言われました。後に、AIHの成功する確率を知ることになりますが、この時は不妊治療自体の知識があまりありませんでしたので、最初のAIHは非常に期待が大きく、マイナス判定だった時、夫婦でがっかりしたことを覚えています。4回のAIH後、ラパロ(腹腔鏡検査)、その後再び4回のAIHの判定もマイナスとなり、初診から9カ月経った頃にはIVFへ。一般的なステップアップを、周期を空けることなく進めていきました。

その頃には、インターネットの不妊治療サイトで知り合った方々と掲示板やチャットで接し、また近郊の方とはオフ会でお会いする機会もたびたびありました。治療のことや他の病院の情報、IVF経験者のお話もうかがい、また同じ病院に通院する方とも知り合うことができて、オフ会も楽しんでいました。不妊治療をしていることを、夫以外の家族や親戚、友人にも全く打ち明けていなかったので、ざっくばらんに治療のことを話せたことは、とても嬉しく励みになっていました。

さらに、IVF2回目をした時期には義母の介護も数カ月間重なり、かなり愚痴をこぼしたい時期でした。ネット上の掲示板に、親との同居、治療の結果が出ない、自分の赤ちゃんのオムツを替えることなくこのまま義母の介護で終わるのか、など、あれこれと思いつくまま愚痴を書き込んだとき、お目にかかったこともない方たちにたくさん励ましの言葉をいただきました。

この世で一番の不幸を背負った私、と思ってしまっていた時でしたが、同じ状況の方がいくらでもいらして、それぞれ踏ん張って、治療に介護に関わっていらっしゃること。もっと大変な状況の方だっていらっしゃるのに、一緒に頑張りましょうとやさしい声を掛けてくださって、落ち込んでいた気持ちもほぐれることになりました。ほんとうにありがたいことでした。

治療過程では、不妊の原因となっているであろうか? という点がいくつか出てきましたが、決定的なものが見当たらないままIVF(ZIFTを含む)を続け、IVFの合間の2〜3周期も、「AIHでは無理」という原因が見つからないことからAIHをし続けました。これは私の生理周期がクロミッドを飲まなければきっちり来ないということで、「どうせ飲んでいるならダメモトでAIHしよう」というわずかな期待からでした。

数回のIVFが失敗になった頃、お医者さまに「子宮筋腫が以前より大きくなっているので、筋腫摘出してみてはどうか」という提案がありました。他の大きな要因も見つからないため、気になるものを除いていってはどうか、という感じの説明で、今すぐという訳でもなく、筋腫摘出したら必ず妊娠できるという保障があるわけでもないとのこと。

その頃40歳。今から開腹手術をしても、子どもを授からないまま終わる可能性を考えると、「すぐに手術します」とは言えず、もうしばらくこのまま治療を続けながら考えることに。本当は、考える時間ももったいなく思えるほどでしたが、何とか手術をせずに妊娠に至らないものか、と淡い期待もありました。そして新たな期待を持って、遠距離通院になる2軒目の病院へ。そこではIVFを1度したものの、マイナス判定。受精卵がそう悪くないのに着床しなかったことから、1軒目の病院での経過も加味したうえで、そこでも開腹による筋腫摘出をすすめられました。子宮筋腫がかなり大きかったので、少しでも不安要因があるならそれを取り除いたほうが良い、ということでした。

結局、治療開始から約2年後、IVFを6回した後、筋腫摘出の開腹手術をお願いしました。この手術については、治療友だちといえる方が私より半年前に同じ手術を同じ病院で受けていらしたので、事前に詳しく体験談をうかがうことができました。知識を得られて恐怖心も薄れましたし、心強く感じました。とはいえ、下腹には横に15センチのケロイドの傷痕が残り、術後は複雑な思いはしたのですが。

その後、着床にもリンパ球輸血が有効かもしれないと聞けば試し、AHA(アシステッドハッチング)は? アンタゴニストは? と情報を仕入れては、これはどうか?とあれこれと病院で質問し、試せるものは積極的にお願いしていたのも、治療3年目あたりでした。その頃には不妊治療ができる病院のHPも増えていて、AIHやIVFの成功率が報告されていることがあり、年齢による成功率なども知ることができました。40代の成功率の厳しい現実もありましたし、病院によっては年齢制限をしているところがあるとか。通院している病院では治療年齢の制限はしません、と言われそれが救いではありましたが、その反面、言われないということは自分で判断しなくてはいけないのだ、とも。

IVFも次で2桁の回数になる頃には治療も3年が経ち、42歳になりました。筋腫をとってもだめだったのかな、リンパ球輸血もムダだったのかなと考えると、これまで突っ走ってきた分、少々息切れがしてしまい、初めて1周期治療をお休みしました。しかし、まだそこでは諦め切れず治療再開。あまり休む周期もないままに治療ができたのは、私の場合、薬の副作用などがなかったことも幸いだったかもしれません。卵胞の育ちは年々悪くなっていましたが。

マイナス判定のたびに、やはり年齢が問題なのか? それならば自分でそれを納得するまで治療しなくてはいけないのか? ここまで治療の努力をしたのだから、と諦めるために治療をしているのか? などの思いもありました。

妊娠することができた周期はAIH予定でした。しかし周期6日目から11日間のクロミッド服用後に卵胞2個が見えたので、欲が出た私が、採卵をお願いしました。追加でヒュメゴンを2日間注射し、3個採卵。うち1個が変性卵で使えず2個をICSI(顕微授精)。そして途中でだめになってもいいので胚盤胞を試して欲しいということを、また私からお願いしました。まだできたことがなかったので、試してみたかったのです。

結果、2個のうち1個が初めて胚盤胞になり、もう一つは16分割。それをETし9日後にプラスの判定。ET後はいつもなら膣座薬でしたが、その時は毎日通院して黄体ホルモンを注射。胚盤胞が良かったのか、注射がよかったのか、何とか大丈夫かなという10週目を過ぎて、注射通院も終った頃には43歳になっていました。お医者さまからは「結果的には子宮筋腫を取ったことが良かったのではないか」と言われましたが、受精卵もたまたま胚盤胞まで育ったくらい状態が良かったのも要因ではないかと思ったりもします。

高齢が不妊治療の問題点の一つである自覚はありましたが、妊娠中とか出産や育児にも高齢ゆえの問題が次々とあるということには考えが及ばず、その後もいろいろなことがあり、現在にいたります。

妊娠中期から喘息のような咳がでて、喘息用の薬を服用。軽いもので副作用もなく大丈夫といわれましたが、内心は心配。妊娠後期には、咳はひどくなり、むくみも少々。咳の酷さが胎児に悪影響を及ぼしてはいけないし、子宮筋腫の開腹手術もしていますし、何より高齢なので、帝王切開で出産をすることになりました。お医者さまには「この年齢でやっと妊娠後期までたどり着いたのだから、何とか無事出産することだけ考えましょう」と。

しかし、安全策のはずだった帝王切開でも出血多量のトラブルがあり、自己血以外にも輸血をすることに。そのためか高齢のせいか快復には日数がかかったようです。肝炎などの感染症の検査にも定期的に数カ月間通いました。

そして、こんなに望んで望んで治療の末に授かった子どもではありますが、出産直後は、いわゆるマタニティブルー状態に陥りました。睡眠不足と疲れでうつ状態になるのは年齢に関わらないと思いますが、体力のなさはやはり高齢ゆえなのかな、と。出産後退院したものの、自宅に帰って一週間あたりから、朝からただただ涙で起き上がることもできず、食事どころか水分も喉を通らず、育児もできない状態に。泣きながら病院や保健所に電話をしました。結局2週間家にいた後に、再び子どもと二人で産褥入院を半月したのです。体力も気力もない自分に愕然とし、これから何年も子どもを育てていくことに不安も感じた時でした。

私同様、夫も育児の大変さまでは考えが及んでいなかったようで疲れる様子。夫が仕事で忙しく疲れていても、私も育児でヘトヘトで自分のことで精一杯。お互いを思いやる余裕もなく、夫婦の会話もないとげとげしたものになることがたびたびあります。もっと若くして子どもを持っていれば、お互いの両親も若く、手を借りることもできたのでしょうが、すでに夫の親は他界し、私の親も遠方に住み70代。これも高齢ゆえの辛いところですが、致し方ありません。

マスコミ等で、高齢出産の利点などを目にすると、「精神的な余裕」ということが書かれてありますが、そんなものはどこにあったかな? と自分を振り返ると思います。高齢からの治療についての利点は、経済的には蓄えがすでに少々あった時期でしたから、高額の治療費も捻出することはできました。それでも何年も続いた治療でほぼ使い果たし、今後を考えると、子どもが中学生あたりで夫は定年。老後といわれる時期だと思うと、気が遠くもなります。

しかし、子どもの成長は何よりの喜び。やっと授かったという喜びも成長するほどに増していき、頑張って育てなくてはと思う日々です。

転勤族の不妊治療は、困難の連続…。「治療はあと4〜5年。今は前に進むだけ」
ゆらりさん

私は結婚して転勤族の妻(略して転妻)になりました。そして、子どもが欲しいと思い始めて6年が経とうとしています。

転勤族のくらし

皆さんは、 「転勤族」 と聞いてどんなことを連想されますか? 身近にいらっしゃいますか? 転勤族といってもさまざまで、期間も異動エリアも人それぞれです。私がよく言われることは、 「ずいぶん遠くに行っちゃうね」 「引っ越し、大変そ〜!」 です。実際本当に大変で、内示が出てから短期間で物件を探し、荷造りをし、その土地で関わった人たちにお別れをしなくてはなりません。今までの生活を突然パツンと終わりにすることはショックでもあります。そして、これからの生活に期待と不安でいっぱいの中、新しい土地に赴任するのです。

私のように数回引っ越しをしていると、お気に入りの家具もボロボロに…。住所変更などの手続きも数多くあります。診察券やお店のポイントカードなど、コレクションのように増えました(笑)。

赴任してからしばらくはバタバタしていますが、ある程度落ち着くと、ポツンと一人淋しく、家にいる自分に気がつくのです。親戚、友人などが全くいない土地に転勤した場合、なかなかの気合いが必要です。でも、自分から動かないと何も始まりません。どんなに活発な人でも、その土地になじめなかったり、きっかけがつかめなかったりで、ひきこもりになってしまうことも少なくありません。とてもパワーがいるのです。帰省も、遠方の場合は出費がかさむため、1年間に1〜2回くらいが限度です。でも、転勤族ならではの楽しみもあります。 「今のうちに…」 とせっせと近くの観光地巡りをし、その土地の美味しいものをいただき、文化に触れることができます。長い旅のような生活かもしれません。

このような転妻の暮らしに、不妊治療が加わるとどうなるのか…。

地方での治療と生活

2回目の転勤で、東北地方に引っ越しました。自然が美しいところですが、冬の寒さは厳しく、初めての冬は冬眠状態でした。

私は流産(胞状奇胎)を経験しており、術後は避妊をしなくてはならなかったこと、悲しみから立ち直るのに時間がかかったことから、治療はしていませんでした。なので、この土地で積極的に不妊治療をスタートすることにしました。

県庁所在地に住んでいるとはいえ、田舎で人口も少ないことから不妊治療専門の病院は少ないです。私が調べたところ、県内に3軒あり(大学病院1、個人病院2)、ホームページもある個人病院を訪ねたところ信用できなかったので1日でやめ、もう1軒の個人病院へ。ドクターはおだやかで、目を見てしっかり話を聞いてくださいました。スタッフもあたたかい方ばかりだったので、この病院に決めました。

まずは検査から始まり、排卵誘発剤を使ったタイミング法での治療がスタートしたのですが、土地に慣れること(気候も含め人間関係など)、病院に慣れることを同時進行しなくてはなりません。何もかも一から築き上げていかなくてはならないので、とても疲れます。夫は自分のことで精一杯ですし、毎日夜中に帰宅、週末は出張でいないことも多く、私は精神的にいっぱいいっぱいになることも、しばしばありました。

通院して5カ月が経った頃、だんだん治療のリズムも分かってきたので、知り合いを作るためにも仕事を始めたくなりました。しかし現実は、転妻ということで断られること数回……。何か特殊な技術でも持っていれば違うのかもしれませんが、さすがに落ち込みます。結局、いつ引っ越すか分からない&治療との両立では条件的に難しく、派遣会社に登録してやっと短期、単発のお仕事をいただけるようになりました。

治療のほうは1年以上経ってもなかなか結果がでないため、ドクターも首をかしげて困っている様子でした。AIHをすすめられても夫がいないことが多くできません。 「前向きに治療をしたい…でもできない、年齢的にも厳しくなってくる」、 どんどん不安と焦りで苦しくなってきました。そんな時、夫の仕事関係でファミリーとのおつきあいがあり、子どもはとてもかわいいのですが、悲しくなってしまうこともありました。

こちらでできたお友だちの中に、不妊治療をしている人がほとんどいなかったため、Fineの存在は助かりました。やはり、 「一人じゃない」 と思えることは、とても重要だと思います。セカンドオピニオンのような感覚で、 「ドクターQ&A」 を利用させていただいたこともありました。

タイミング法を10回試してみたものの、このままズルズルと時間だけが過ぎて行くのは納得がいきません。なんとかAIH ができないものか…それとも一度他県に出向いて診てもらったら、別の原因が分かったりするかもしれない…と思い悩んでいた中、新たな問題が〜!!

夫の小さな変化を私は見逃しませんでした。遠くをぼんやりながめていることが多くなったのです。どんどん様子がおかしくなっていく夫に危険を感じ、カウンセリングに連れて行きました。原因は成果主義による激務と職場の人間関係でした。 「軽うつ」 と診断されました。本人が一番苦しかったと思いますが、そばで見ている私も、とにかく毎晩眠れなくてフラフラ状態に。夫を支えなくてはいけない、と気を張っていたのですが、ある日プツンと切れてしまいました。

もう、不妊治療どころではありません。夫は私の前では涙を出しませんが、「今日もどこかでひっそり泣いているのだろうか、車の運転は大丈夫だろうか」 と心配でなりません。後に男性不妊ということが分かるのですが、この時のストレスがさらに症状を悪化させてしまったかもしれません。

確かに30代は働き盛り。どんな仕事でも何かしらあるでしょう。

毎晩一人でご飯を食べることも、週末一人で過ごすことも、夫が外で頑張っているのだからと我慢できました。でも、心が病んでしまうほど、頑張らなくてはいけないのか? 症状が重くなって手遅れになりはしないか…? 私たち夫婦にとって大事なことってなんだろう…。

「もう少し、おだやかな生活をしたいね…」

悩んだ末、色々な選択肢の中から、ある決断しました。

「転職しよう!」

今の私とこれからの私

転職しても職種上、転勤族なのは変わりありません。しかし、今回は会社に赴任地の希望を聞かれたので、 「子どもが欲しくて治療をしている。年齢的にもあと数年が勝負なので、治療の環境が整っている地域であれば全国どこでもいい」 と正直に話しました。会社の都合とこちらの都合が合致したのか、私たちは東北から一気に九州へ〜。ほんと、人生なにがあるか分かりません…。

幸い、不妊治療を専門にしている病院は選べるほどあり、その中の病院に通い始めて半年が経ちます。驚いたのは、待合室に(HPにも)治療実績が掲示されていることです。雑誌で見たことはありますが、本当にこうしてオープンに患者と向き合っているのだな、と実感することができました。

男性不妊も分かり、手術したりと困難続きですが、今は前に進むしかないと頑張っています。またいつ転勤になるかも分からないので、治療環境の良いこの土地で、なんとか授かりたい…という思いもあります。

最近よく空想(妄想?)します。子どもができればいずれどこかの土地に落ち着き、夫は単身赴任になるかもしれない。二人の生活ならば、ずっと全国の土地を転勤して回るのだろうか…。そのとき親はどうなっているのだろう…などなど。

治療はあと4〜5年と決めているので、数年後は私にとって大きな岐路になるでしょう。これからの人生、どう生きて行きたいのか答えを探そうと必死にもがいている自分がいます。でも、もし転妻でなかったら…不妊に関わってなかったら、また別の悩みを抱えていたと思います。たまたま私にとっての学び(悩んだり苦しんだり)のテーマが 「転妻」 であり 「不妊」 だったのかもしれません。

つい、隣の芝が青く見えてしまうこともあります。しかし、人と比べることは自分が苦しいだけなのだ…と不妊治療を通して気づきました。

心を閉ざしていると見えないけれど、自分の中に小さな幸せはいっぱいあるんですよね。

私の好きな葉祥明さんの本に、こんな言葉があります。
『あなたは 今日 微笑みましたか? 喜びを感じましたか?
優しい心になれましたか?
そして 美しいものに 心を向けましたか?』
(『心に響く声』 絵・文/葉祥明・愛育社)

心が沈んでいるとき、ドキンとする言葉です。どうすれば自分が輝けるのか、明確な答えはまだ出ませんが、日々の暮らしの中、美しい音楽や自然、いろんな人の感性に触れて、内面を磨けたらいいな…と思っています。そして、どんなことがあっても夫と乗り越えていきたいと思っています。

最後まで読んでくださってありがとうございました。お話をいただいて文章にすることで、今までのことを整理できたような気がします。私たち夫婦は、不妊治療のことを、親、友人、知人、夫の会社に話しています。身近に、 「子どもが欲しくて治療をしている人がいるのだ」 と知ってほしいからです。

不妊治療に対する考え方、環境は人それぞれだと思います。近い将来、どこに住んでもどんな状況でも、安心して治療やカウンセリングを受けられる社会になって欲しいと切に願います。

「家族、Fineやカウンセラー養成講座の仲間、そして私。みんな大切な “たからもの”です」
ケセさん

小さいころ空にある白い雲を見上げ「おなかいっぱい食べたいなー」と思っていました。まるでその雲の上を飛び越えたように、私は「Fineピア・カウンセラー養成講座」を1年間受講しました。

Fineのことを知って、今まで私の中にあった思いが一気に湧き出してきました。

それは「不妊の体験をしていろいろなことに悩み、苦しみ、喜んだことなどを通して、いつか誰かの話し相手になれたら…」という思い、そして「私の体験したことが誰かの役に立てば…」という思いです。その思いによって私は受講を決意しました。

はたして1年間継続できるのか不安はあるけれども、ピア・カウンセラーになりたいと思っている私のことを、家族が応援してくれる支えがあって、月に1度、休まず無事に継続することができ、改めて家族への思い、絆が深まったよう思います。そして、丈夫な体に育ててくれた私の両親にも感謝です。後半くらいからはさすがに体力との戦いにもなったので、どうにか乗り越えた私自身も誉めたいです。養成講座の講師も毎回熱意ある講義内容で私をくぎ付けにしました。

講座を重ねていくと私が体験したことが次々と頭の中をめぐってきて、あのときの自分の気持ちに初めて向き合えたように思います。治療中は自分の思いすら考えたこともなければ、自分自身の価値観も、そして何の疑問も持たず、ただただ、医師に言われるがまま指示通りに治療を受けていました。4年間、無我夢中でした。「また、だめだった」が何回も何回も繰り返され、何度も涙を流しては次の治療に向けてまた予定を立てて…を繰り返す中、私の気持ちを聴いてもらいたいのに、そんなこといってる場合じゃないというような雰囲気が漂っていたので、自分の気持ちに蓋をしていました。弱音を吐いちゃいけないと思っていました。

しかし、講座を受講するたびに、その時そのときの自分自身の気持ちを大切にすることが大事なんだということがわかり、あのときの自分には戻れなくても、あのときの自分の気持ちに気づけたことはとても大きな習得でした。自分の気持ちを整理することができました。また、少しずつです が、夫も私にあのときの気持ちを話してくれるようになりました。治療中はお互いの気持ちなど気にせず、あせる気持ちでいっぱいいっぱいでしたから。でも今ではそんな体験も無駄ではなく、むしろ良い体験だったと思えます。

「あの時こうだった」よりも、「今こんな気持ちなんだ」というわかち合いができたら良いと思います。

不妊で悩んでいる人がいたら、自分自身を見つめる時間を作り、自分の価値観を持ち、人の意見に右往左往するのではなく、左に行く?右に行く?を自分自身で考え、決めることができるようなお手伝いができたらいいなぁと考えています。

不妊治療をただ辛いだけの体験にするのではなく、悔いのない自分のストーリーにできたらいいと思います。自分のストーリーをより良くするためにも自分の考え、思いなどを発することも必要だと思います。そのためには聴いてくれる人の存在も必要。聴くことの難しさも講座を受けて身にしみました。今まで人の話をちゃんと聴いたことがあっただろうか? 聴いていたけど本当は自分の意見ばかりを相手に言っていたかも。相手のことを承認して受け入れる純粋な心磨きが必要なことを講座で学習しました。

これからは1人でも多くの人の心の励みになれるように啓発活動ができたらと思っています。1人よりも2人。2人よりも3人。と、1人じゃなくて仲間がいることに気づいて、1人で重い荷物を持つんじゃなくて、みんなで分けて持つと少しは軽くなるのでは? まわりにはいつでも手をさしのべてくれる人がいるんだと、安心できる環境づくりも必要だと思います。

人は1人では生きていけないし! 寄り添える相手がいることと、寄り添いたいと思う自分に気づいて思うままにやってみることもいいんじゃないかと私は思います。自分の気付きを大切に。何よりも、支えてくれる、応援してくれる人が自分のそばにいることを忘れないで!

目標の自分に会えるように一日一日をがんばっていきたいと思います。今回ピア・カウンセラー養成講座を受講したことで私はたくさんの“たからもの”を得、またすぐそばにある“たからもの”に気づくことができました。家族、受講生の仲間、Fineの仲間、そして私。みんな大切な私の“たからもの”です。ありがとう!!

不妊治療を経て出産、そして”二人目不妊”。「治療をやめたことは、無意識の選択でした」
冴子さん

わたしの「ふぁいん・すたいる」

私は23歳で結婚しました。子どもができにくいかもと考えはしましたが、現実になるとは思っていませんでした。というのも、直接聞いたわけではないのですが、私の母も10年以上子どもができず、治療・流産を経て私を産んだからです。母は私が14歳の時に亡くなりました。卵巣破裂による腹膜炎でした。今から40年以上前の治療がどんなもので、なにが死に影響していたのか? 今ではわかりません。私がこのことを考えるようになったのですら、数年前のことなのですから…。

結婚後に子どもができないというあせり、それに加えホルモン系の病気になり、半年間、子づくりも止められ、精神的に追い込まれていきました。

病気が治ると不妊治療を開始したのですが、夫婦ともに特別な原因はなく、排卵誘発剤とタイミングで様子をみていました。しかし、妊娠することはなく、生まれて初めてといっていいほどの挫折感を味わっていました。不妊という現実を受け入れられず、生理がくると泣いて、自分が壊れてしまうのでは?と思うほど取り乱していました。そして、1年たった頃、痛みと惨めさで治療途中に、病院から帰ってきてしまったのです。

まだ若かったこと、父の病気が見つかったこと、いろいろと自分の中で理由をつくり治療をやめました。でも、それがかえって「困難に立ち向かわずに、逃げだしたのだ!! 」と自分を追い詰め、もともと人付き合いが苦手だったことも手伝って、ほとんど外に出ず、周りの人を遠ざけ、引きこもりのような生活になってしまいました。

そんな生活が3年も続いた頃でしょうか、父が亡くなりました。日頃、「こんな生活をしていてはいけない」と思ってはいましたが、父の死は、さすがに心に思うものがありました。30歳を過ぎたこともあったのかもしれません。でも、やはり治療しようという気にはなれず、まずは環境を変えようと、引越しを考え、自動車学校に通い始めてすぐ、妊娠したのです。父が亡くなって3カ月目、結婚して8年目のことでした。

妊娠・出産は私を変えました。堰を切ったように外に出て行きました。出産後1年も経つと、二人目が欲しいと思うようになってきました。治療はする気はありませんでしたが、出産して4年後くらいから生理不順で病院に通院するようになり、「子どもも欲しい」という話が出ると、排卵誘発剤を使うことになって、体調を整えるために鍼治療も1年ほどしました。 そんな中、子どもが6才のとき怪我で入院しました。しばらく病院通いができず、子どもが治っても、不妊治療のための通院はしませんでした。その後も生理は不順で、私の中で二人目は諦めました。いつ区切りをつけるのか? これからどうなるのだろうか?と不安に思っていたので、自然な形で諦められて良かったと思っています。これが、過去から現在に至る私の「ふぁいん・すたいる」です。

二人目不妊・一人っ子について

二人目はもともと諦めていたとはいえ、自分が一人っ子だったためか、「兄弟はいたほうがいい」という思いは強く、周りが二人目・三人目を出産していくと、とても辛く、よく泣きました。同時に、私が一番恐れたのは、自分がまた以前のように引きこもってしまうのでは……ということでした。しかし、そうはなりませんでした。

出産していく友人を避けた時期もありましたが、やはり、赤ちゃんは可愛く、しばらくすると、気持ちも落ち着きました。私は、不妊で二人目は諦めていることは、日頃から友人や子どもにも話していました。「聞かれる前に言ってしまおう」という無意識の自己防衛だったのかもしれません。実際、自分から話すと気持ちが随分楽になりました。

そのためなのか、子どものキャラクターなのか、周りからも、「一人っ子だから…」と、比較されるような言葉を言われることは少ないです。ただ、「お金が自由に使えて、楽でいいわね。二人目は?」というような一般的なことの他に、「家族3人だと鍋料理なんてしないでしょ?」などの思いがけないことを、たまに言われます。平静を装いつつ、心では過敏に反応しています。

一人っ子の家庭を「他と変わらない」と思っている方から、少し極端ですが、「家族とはいえ自分たちとは違う」と思っているような方までいろいろな方がいます。付き合ううちにわかったのは、前者の考えに近い方のほうが圧倒的に多く、後者の方とは他のことでも価値観が違いました。

子育ての中でも、兄弟のいる子のほうが多いので、そこからは逃げられません。いえ、他のお母さんたちと関わらずに子育ても可能だったかもしれませんが、初めは「一人っ子だから、友だちを作ったほうがいい。私が逃げて子どもに友だちができるわけがない」という思いで、世間の評価を気にして無理をしていた部分もありました。でも子どもは、自分に合った方法で友人を作り、外に出て行きますし、私も、子どものためがいつしか自分のためになり、その中で気の合う友人ができ、今では友人がかけがえのない存在になっています。

一人っ子だということで何か言われるのは事実ですが、「男の子・女の子・最初の子・真ん中の子・末っ子・容姿・個性・他」、各々の立場によっては、親同士の会話に入れないことがあり、いろいろと言われ、経験できないことも出てきます。気になるのは仕方がないのかもしれませんが、悩んでもどうなるものでもないし、子どもの将来にそんなに大きな影響が出るとは思えません。それよりも「これが我が家のスタイル、気にしないで今を楽しもう」と考えるようになってきました。時間とは優しいものです。

不妊に対しても、ニュースなどマスコミの影響で、「欲しくてもできないことを悩んでいる人がいる」くらいのことは理解されていますが、当然、経験したものとは大きな差があると感じます。

以前、友人数名で集まったとき、私が不妊の話をした後に、友人が臨月で死産した話をしました。私もショックでしたが周りには泣いている方もいて、友人の苦しさや辛さを、皆が理解していました。

そのときに私は「目に見えない私の苦しさや辛さは、わかってもらえないのかな〜」と寂しく思いました。10年以上、たった一回の妊娠の他は、毎月似たような感情を持っていた私ですが、そういう気持ちは理解されにくいのだと感じたのです。

もちろん友人たちが悪いのではなく、どんなテーマでも、経験のないことを理解するのは難しいのだと思います。まして、不妊は個人で考え方が違います。ただ、私の考えとして、「死」は悲しいこととして皆がわかるけれども、「生を生み出せない」ということは、人によっては「死」にも値する苦しさや辛さだということも、わかって欲しい、と強く思ったのです。

これをきっかけに、機会があれば、以前以上に不妊のことを話すようにしています。

これからの「ふぁいん・すたいる」

「逃げて、流れに任せた」これまででした。そして、妊娠・出産をして、二人目を諦め、「私の不妊は終わった」といってもいいのかもしれません。

しかし、私の心は、逃げきることも、解決し克服することもできていません。不妊の経験ある、なしに関わらず、「ほとんど治療もせず、子どもができて十分じゃないの」「そんなに悩むなら、もっと治療すればよかったのに」と思われる方は多いでしょうし、実際、言われたこともあります。

私自身も、積極的に治療していたらどうなっていただろう。もし、二人目を授かっていたら、完全に過去のものになっていただろうか? そう考えはしますが、その答えは出ないと思います。

ただ、ここまで来て思うのは、きっと「できるのにしなかった」のではなく、私の性格や環境から、「その時々で、それしか選べなかった」ということ。そして、「選んだ結果が今なのだ」ということです。良かったのか? 悪かったのか? そんなことを考えても、仕方がない。自分が選んできたことに責任を持って、生きていくしかない。解決はされていないけれど、このことで私はいろいろと経験し成長できました。

偉そうなことをいっても、時々どうしようもなく、悲しみ、辛い波がやってきます。妬みにも似た感情が沸き、自分でも嫌になることもあります。不妊は、始まりも個々で違うように、終わりも違います。これからの時間をかけて、少しずつ克服していくしかない、それが私のこれからの「ふぁいん・すたいる」になるのでしょう。これまでのように、流れに任せ、ゆっくりとやっていきます。多分一生をかけて…

Fineへの入会

これを書くにあたり、スタッフの方に「Fineに入会・サポメンになった理由」を聞かれました。

二人目に悩んでいた頃、あるウェブサイトをきっかけに不妊で悩みを共有でき、励まされることがあるのを知りました。私は見るだけでしたが、心強く思いました。二人目に区切りをつけた頃、そのウェブサイトでFineが立ち上がることを知りました。「このまま何もしないのは後悔しそうで、何か突き動かされるものがありました」。それが理由、というのが正直なところ。

とても、抽象的だな〜と思って、改めて考えてみると、これまでの表現を借りれば、「一生、逃げきれないだろう」と思った時、やっと不妊を受け入れ、話せるようになったのに、周りに不妊に対して私の気持ちを共有してくれる人がいなかった。同じ思いをした人たちの仲間になりたかった。思えば、入会は自分のためばかりです。でも、今は少しでも、皆さんのお手伝いができるのがうれしいです。

治療に消極的だったのに、サポートメンバーになるのは珍しいのでしょうか? ウェブサイトでは、ほかの方がどんな方か、またその経歴もわからないし、Fineに入会するまでどなたともお付き合いもなかったし…。

正直、会員の方の高度医療の話を聞くと、ここにも私の居場所はないのかもしれないと思ったこともあります。

ただ、治療をしなくても、不妊に悩み・苦しんでいる人は多いと思います。

Fineの「現在・過去・未来」。この言葉だけを頼りに、広く受け入れてくださるのだと思って飛び込んでしまった、というところです。

終わりに・・・

私がここまでくるのにはたくさんの時間と、周りの人の助けが必要でした。私を産んでくれた両親に、いつも守ってくれた主人に、私を変えてくれた子どもに、友人に、そしてFineに、とても感謝しています。ありがとう。これからもよろしくお願いします。

私の選択〜「子どもがいないからこそできることを、夫と二人で模索しています」
でみさん

はじめに

私は、35歳で結婚して、38歳から42歳までの4年間、不妊治療を受けました。最初は、一般の病院で人工授精を12回、その後、不妊専門のクリニックに転院して、体外受精や顕微授精による胚移植を計6回、一度だけ妊娠反応が出ましたが、9週で流産し、最終的には二人の生活を選択しました。
20歳代の頃は、仕事をすることが楽しくて、結婚に対してはマイナスイメージを持っていました。残業の多い職場だったので、結婚して家庭を持ったり、子どもを産んだりしてしまったら、好きな仕事に打ち込むことができなくなってしまうと考えていたのです。
でも、30歳をすこし過ぎたあたりから、心境が変化しはじめました。せっかく女性に生まれたのだから、子どもを産んで育ててみたい。そんなふうに思いはじめたのです。一度決めたら、すぐに行動に移すほうなので、さっさと結婚して、さあ、次は子どもだと意気込んだのですが、なかなか妊娠できません。それでも、結婚生活は独身の頃に想像していたよりもずっと楽しくて、子どものことはあまり気にとめていませんでした。さすがに38歳になった時には、不安を感じて、県の不妊相談窓口に相談して、病院を紹介してもらいました。この時、私は自分が不妊症とは夢にも思っていなくて、最初の人工授精の帰り道に妊娠とお産について書かれた本を買って帰りました。これで、妊娠できるに違いないと思っていました。この後、つらくて苦しい不妊治療の日々が待ち受けていることを、その時の私は想像さえしていませんでした。

頑張ったことが報われない

不妊治療を受けていた時、一番つらかったのは、頑張ったことが報われないということでした。不妊を経験する前の私は、頑張ればどうにかなるものだと信じて疑いませんでした。実際、頑張ればどうにかなってきたし、どうにかならなかった時には、頑張りが足りなかったという自覚がありました。
でも、どんなに頑張っても、私は妊娠することはできませんでした。決められた日に病院に通い、決められた時間に薬を飲み、胚移植後は、医師の指示通りに過ごしました。まじめに一生懸命に取り組んでも、結果を出すことはできませんでした。どんなに頑張っても、どうにもならないことがあるんだということを、初めて思い知らされました。

自分を責める

この頃は、私がこんなに頑張っても妊娠できないのに、世の中の他の女性たちは、簡単に子どもを産んでいるようにみえました。実際には、皆、それぞれ大変な思いを経験しているのかもしれません。でも、他の人は普通にできることなのに私だけができないという劣等感を感じはじめていました。そして、それがそのまま自分を責めるという気持ちに変わっていったのです。
よく、失敗は成功のもとといわれますが、失敗した時、何が原因だったのかを反省して、次につなげることはとても大切だと思います。でも、いくら後悔したり、自分を責めたりしても、過去を変えることはできません。この頃の私は「あれをしたから、妊娠できなかったのかもしれない」とか「あれをしなかったから、妊娠できないのかもしれない」に始まり、「もっと早く治療を始めていれば妊娠できたかもしれない」さらに、「もっと早く結婚していれば妊娠できたかもしれない」と、自分を責めることばかり考えていました。妊娠できないことで、一生懸命仕事をしてきた過去の自分さえ否定したくなってしまっていたのです。
さらに、私は丈夫で健康なのがとりえだったので、自分の身体なのに、自分でコントロールできないということも、自分を責める気持ちに拍車をかけていました。月経が始まってしまった時に、自分の太ももを叩きながら、「もうこんな私なんかいらない!」と泣き叫んだこともありました。

先が見えない不安

不妊治療のつらさの一つに先が見えないということがあると思います。
治療を受けている時は、いろいろな選択を迫られました。充分な医療説明があれば、患者の不安は解消されるという考え方がありますが、私は医療説明だけでは、不安はなくならないと思っています。治療を選択する時、医療者の皆さんから、正しい情報を教えてもらったり、患者の側も必要な情報を勉強したりすることは、とても大事だと思います。正しい知識がなければ、より良い治療の選択はできないからです。でも、私は治療の内容について充分に説明してもらっても、不安は解消されませんでした。
たとえば、体外受精の着床率について説明してもらった時、妊娠できない確率のほうが高いんだなということはわかりました。でも、私が本当に知りたいことは、「私はどうなの?」ということです。「私は、妊娠するほうの数字に入るのか入らないのか」さらに、「受精卵のグレードはとても良いと言われたのに、なぜ、妊娠できなかったのか?」「あと何回、体外受精を受けたら、妊娠できるのか、それともできないのか?」これらの疑問に答えてもらえたら、きっと不安はなくなるのだと思います。
でも残念ながら、それは誰にもわかりません。誰にもわからないけれど、私たちは選択をしなくてはいけないのです。「また妊娠できないかもしれない」「この先、ずっと妊娠できないかもしれない」という不安を抱えながら、治療を続けていました。

私の選択

最終的には、私は夫と二人の生活を選択しました。治療をやめたのは、できるだけのことはしたと自分で納得できたことと、私なりの「夢」を見つけることができたからです。
3回目の体外受精で妊娠反応が出たものの、5週目からホルモンの数値が上昇せず、医師からは流産の可能性がかなり高いと言われていました。でも、その子は、それから1カ月間、私のおなかの中で頑張り続けていました。その間、私の感情は、「もうダメかもしれない」と「きっと大丈夫」という絶望と期待の間を何度も往復していました。完全に流産だとわかってしまえば、対処のしようもあるけれど、どちらなのかわからない不安定な状態が一番苦しいと感じました。実際、掻爬手術が終わった後、泣きたいだけ泣いたら、気持ちがすっきりして、1カ月間持ち続けていた、こころのおもりがなくなったように感じました。
一度妊娠できたのだから、きっと子どもが授かるはずだと期待がふくらみましたが、その後は妊娠することはできませんでした。受精卵のグレードも少しずつ落ちてゆき、年齢的な限界も感じはじめていました。そんな時、通院していたクリニックで、カウンセリングをしている人の言葉に傷つくという経験をしました。同じことを一般の人に言われたのなら、あっさり聞き流せたと思います。でもカウンセリングをしている人なら、きっと私の気持ちをわかってくれるに違いないと、かってに思い込んでいました。相手に期待し過ぎてしまったために、必要以上にその人の言葉を重く受け止めてしまったのだと思います。
それをきっかけに、あちこちの不妊のセミナーやシンポジウムなどに積極的に出かけて行きました。そこで、とても魅力的な心理カウンセラーの方の話を聞くことができ、心が軽くなったこともあります。でも、失望を味わったこともたくさんありました。不妊の苦しさの根本的な理由をわかっていないのに、なぜ、不妊のカウンセラーだと名乗っているのだろうと感じたこともあります。

そうした経験から、もし、子どもを諦めたら、私が理想のカウンセラーになりたいという気持ちが、徐々にふくらんでいきました。最初は小さな小さな夢でしたが、日ごとに大きく育ってゆき、不妊でつらい思いをしている人たちの心を軽くするお手伝いをしたいと思うようになりました。それは、子どもを産み育てることと同じくらい魅力的なことに思えたのです。自分の気持ちがはっきした時点で、夫と話し合い、あと1回体外受精を受けて、もしダメだったら、不妊治療をやめることを決めました。私がカウンセリングの勉強をしたいと思っていることを話すと、夫は協力すると言ってくれました。
そして、妊娠判定の結果を聞いた帰り道、「私たちの子どもを産むことができなかった。ごめんね」と泣いた私に、夫は「子どものことは残念だったけど、子どもがいないからこそできることもあるから、これからは、二人でそういう生活をしよう」と言ってくれました。夫のこの言葉は、私の大きな支えになっています。

夢をかなえるために

治療をやめてすぐに、通信制の大学に編入して、心理学やカウンセリングの勉強を始めました。子どもを得るために注いでいた情熱を、そっくりそのまま勉強することに置き換えたのです。そうやって、「もうすこし治療を続ければ妊娠できるかもしれない」という気持ちにふたをしました。この頃の私はムキになって勉強していたように思います。頑張っても妊娠という結果を残すことはできなかったけれど、頑張って勉強すれば、試験で良い点数をとることができました。これで、失ってしまっていた「自分を信じること」を、取り戻していったのかもしれません。妊娠できなくても、ここまで生きてきた私を、すこしずつ受け入れることができるようになりました。
現在、夫は鍼灸師の資格を取るための学校に通っています。結婚した頃は、アパレル業界とIT業界で、それぞれ仕事をしていた私と夫が、今ではこころや身体を癒やすための勉強を始めています。不妊で失くしたものはたくさんあったけれど、それ以上に得たものもたくさんありました。今は、「子どもがいないからこそできること」を、夫と二人で模索しています。

「ニューヨークでの治療体験記」
あんあんさん

私たちは2005年9月から東京のあるクリニックで不妊治療を開始しました。ひと通りの検査を終えたあとすぐに人工授精を2回したのですがうまくいかず、翌年2006年1月初めての体外受精をしました。当時私は40歳でしたが嬉しいことに妊娠しました。ところが心拍確認が順調にできたにもかかわらず、8週目で流産してしまいました。病院で手術を受け、2006年5月に2回目の体外受精をしました。その後5回の体外受精を試み(うち1回は卵胞の育ちが悪く、採卵前にキャンセル)、すべて陰性に終わって2007年の春になっていました。私はもう42歳、当初ぼんやり考えていた治療のタイムリミットの歳になってしまいました。でも私も夫もまだあきらめたくありませんでした。と同時に今までと同じクリニックで、言われるままに治療を受ける気持ちにもなりませんでした。また、6回目の体外受精が陰性に終わった時、ドクターからも今後ご主人とよく話し合ってみてください、というようなことを言われていました。転院の時期かな、と私たちは思うようになっていました。

夫はアメリカに行くことも考えてみよう、と提案してきました。もうこれまで何度も治療してきたし、今後も何年も治療し続けられない、それなら妊娠率が高く、評判の良いところで治療を受けるべきだ、と言うのです。確かにアメリカのいくつかのクリニックは非常に妊娠率や出生率が高いです。私も自分たちができうる限りの最良の選択をしないとのちのち後悔する、と思い始めるようになりました。夫はオーストラリア人だし、ドクターと直接英語で話せるし、おそらくもっと質問しやすいだろう、と思ったのです。

クリニック選びですが、その選択にあたっては、海外からの患者をたくさん受け入れている(例えば移植後帰国するタイミングを指導してくれたり、日本にいるときにはメール対応してくれたりなど、アメリカ国外からの患者も扱い慣れていること)、妊娠率が高い、の2点を条件としました。
早速、必要書類を取り寄せましたが、何しろ分量が多い! 50ページくらいあったでしょうか。これまでの不妊治療履歴だけでなく、風疹、水疱瘡などの伝染病を含むすべての病歴、家族の病歴、薬に対するアレルギーなどについての問診、医療保険について、治療費の分割払いの案内、誓約書・・・と際限なく続きます。これを記入していくだけでも大変な作業になるな、と気が重くなりました。

それに排卵誘発剤や黄体ホルモンなど注射に使う薬も現地で自分で調達しなくてはいけない・・、スーパーで野菜を買うのとは違ってちょっと尻込みしました。それでそんなことを手伝ってもらえる機関がないだろうか、とネット検索し、ある日本人女性がやっている医療コンサルタントのウェブサイトを見つけました。
その医療コンサルタントでは、こちらから情報を提供すればすべての事前の書類作成をしてくださり、また、薬も安心でより安いところから取り寄せてくださるとのこと(とはいってもアメリカの薬は高いですよ、と釘をさされましたが)で、治療中の不安が激減します。おまけに、医療コンサルタントから紹介していただいたニューヨークのクリニックは、出生率が高いだけでなく、日本から治療に来るケースにも扱い慣れており、さらに医療コンサルタントがアメリカのドクターの指示に従うことのできる日本の提携施設を手配してくださるとのことだったので、そこに決めました。

このふぁいん・すたいるでは、ここから始まるニューヨークでの治療体験の中で、クリニックに通い始めた頃と、特に大変だった自己注射について、書いてみたいと思います。

治療をすることを決定してから、初診のためいつニューヨークに行くのかスケジュール調整が始まりました。私はクリニックとの直接のやりとりをしなくてもよく、これは医療コンサルタントが私に代わってすべてしてくれました。また、私のこれまでの治療歴を含むすべての必要情報も私に代わって書類記入、クリニックに提出してくださいました。

まず生理が始まって2日目か3日目に事前検査と、6日目〜10日目のどこかでまた別の検査および初診があります。医療コンサルタントは、こちらの負担を軽くするためになるべく日本でできるものは日本のドクターのところで、という手順を整えてくださっていました。私の場合も2日目もしくは3日目の検査は東京の病院で受け、その後すぐに渡米し子宮腔内注水検査を受け、引き続き内診、ドクターからのお話を伺いました。

ニューヨークにはなんとか夫も仕事の都合をつけ、同行してくれました。8月27日から3泊4日の旅程で、診察は29日に予約されていました(夫同伴はもし無理であれば必須ではないそうです)。ニューヨークでの初診の日は、医療コンサルタントも同行します。それは、彼らはドクターから提案される方法(英語では「プロトコール」と呼んでいます)をもとに、本番のスケジュールを組み、本番で注射する、また服用する薬の注文をしてくれるからです。また医療通訳も希望に応じてしていただけます。
ドクターとは1時間強くらいお話したでしょうか。十分質問に答えていただけまたそれ以上質問があれば日本に一度帰ってからでも直接メールをくださって結構ですよ、とおっしゃってくださいました。私も夫も質問が枯れるまで十分に時間をとってもらえる体制にとても満足しました。

初診を終え帰国しましたが、すぐに翌月の本番サイクルに向け渡米の準備を始めなくてはいけませんでした。私の場合幸いにも定期的に生理がくるため、この予定は比較的たてやすかったと思います。夫には採卵の予定日(たいてい注射が始まってから11日から13日の間)をはさんでだいたい1週間くらいの滞在をするよう、調整してもらいました。そして出発までの間に疑問となる点はすべてメールでのやりとりで解決しておきました。

ジョン・F・ケネディ国際空港では、医療コンサルタントの方が大きな箱を台車に乗せて待ってくださっていました。「いったい何なのでしょうか」と尋ねると「これ、今回治療で使うお薬よ」とさらっと言われてしまいました。ドクターの処方箋に基づき、サイクルの全期間で使われる薬や注射器、針、アルコール綿などすべてがこの箱の中に入っていたのです。アパートに着くと医療コンサルタントの方がすぐに箱からペン型のGonal Fを取り出し、冷蔵庫に入れてくださっていました。Gonal Fだけ要冷蔵だそうです。医療コンサルタントの方は「サイクルに入ったらその都度指示があるので、それまでは何もしなくて大丈夫」と軽くおっしゃっていましたが、それにしても、薬の種類の多さにかなり面食らってしまいました。

生理になったので治療を開始しました。2日目に血液検査、内診で、医療コンサルタントの方と2人、クリニックへ向かいました。
ニューヨークのクリニックでの通院は、採卵までは血液検査と超音波検査だけで数回ですみますが、私の場合は少し多く、結局5回行きました。
ナースから、「今日の夜だけGonal F 300単位と Menopur 150単位を打ち、明日からは朝Gonal F 300単位、夜Menopur 150単位をだいたい決まった時間に皮下注射(もちろん自分で)をする」よう指示をもらい、それぞれの注射の仕方について教えてもらいました。とはいってもあまり詳しく教えてくれたわけではなく、「クリニックのウェブサイトでビデオを見て学ぶか、もしくは薬についている説明書を見ながらやってね」と言われてしまいました。日本のクリニックで自己注射する前は、丁寧に教えてくれて模擬練習までしたのに。これがアメリカの患者の自己責任というものなのか、と最初のため息がでてしまいました(その時はわからなかったのですが、これから先、違った種類の注射器に何度も焦り、緊張することになります)。
そして夫は、Doxycyclineという精子中にバクテリアが入り込むのを抑えるための内服薬を採卵の日まで飲むことになりました。このお薬もあらかじめドクターに処方箋を書いていただき、日本で購入しました。

夜、ペンタイプのGonal Fを注射しようとしても薬液がでてこず、下腹部に空気を注射し出血させてしまった私。何度も説明書を読み返し最初にすべき手順を見逃していたことに気がつき、やれやれ、と注射。1本が900単位なので3回注射すればちょうどなくなり、次のペンを新規で使えます。
続いて Menopur 150単位。こちらはパウダー状のバイアル(薬が入っているガラスの容器。口がゴム状になっていて、注射針を刺して薬液を吸い取ります)1本75単位を2本、生理食塩水1mlに溶かし、針をかえてから下腹部に注射。バイアルの取り扱いはすでに日本のクリニックの体外受精で経験済みだったので、何とかなるだろうと思っていたのですが、こちらも空気が入ってしまい薬液が思うように吸えなくて時間がかかりました。やれやれ。

胚移植後の黄体ホルモン補充時も、筋肉注射を初めて自力で終えたあとは冷や汗でびっしょりでした。私にとっては注射がニューヨークでの治療における一番のハードルでしたが、でも人間「これしかない」と追いつめられるとできるものだと実感しました。

ニューヨークでの治療は、「自己責任」と「情報量の多さ」に尽きると思います。また、ある程度治療自体を楽しむという姿勢も必要なのかな、と感じました。

私のふぁいん・すたいるは、まだまだこの先も続きます。また改めて、Fineウェブサイト等で体験談として紹介させていただきたいと思います。

「福祉先進国での不妊治療」
NAKさん

私は日本での不妊治療を経験したことがありません。
だから日本の不妊治療の様子はネットなどの情報からしか垣間見ることはできませんが、こちら福祉国家の北欧は、治療法や取り巻く環境が日本とは多少なりとも違った部分があるように感じています。ちなみに私が住むのはムーミンの母国、フィンランドです。例えば…、

1)基本的に不妊治療には保険が適用されます。
年間のお薬やホルモン注射代が、ある一定額を超えると、それ以降は全て無料になります。その「ある一定額」などは、ICSIを1回やるだけで簡単に超えてしまう。だから年に何度もICSIをやる場合、2回目以降のお薬や注射代は完全に無料!! 採卵や移植、診察費用などももちろん、保険の対象です。
ただし数年前の保険改正により、40歳以上の【加齢が原因】の不妊患者に対しては保険適用がなくなり、私は大ショック!
つまり、加齢は“病気ではない”という理由からです。

2)自己注射です。
初めての時は、本当に緊張し、ドキドキしました。失敗したらどうしよう…って。案の定、上手く針が刺せなくて、何度も刺し直してはおなかに内出血ができる。夫は私が注射を打つ姿すら、恐がって見ることができずに、いつも別の部屋に逃げて行きました。
でも、「慣れ」とは恐ろしいもので、今では立ったままでも、あっという間にブスリ。通院の手間がはぶけると考えれば、簡単でラクチンです。治療法により、最多では1日に3本打つこともありました。この時はさすがにおなかがシクシクしましたけれど。
ちなみに日本のクリニックでは自然周期などの、体に優しい治療を行なっていると聞いたことがありますが、こちらは高刺激でアンタゴニストが主流です。

さてさて。海外生活や、海外での不妊治療の中で、私が最も大変だと思ったのが何よりも「言葉の壁」でした。日本を離れ、夫の母国であるフィンランドで生活を始めて早くも6年。今でこそ、日常会話にはほとんど不自由しなくなりましたが、最初の数年間は本当に苦労しました。フィンランド語は世界の言語の中でも特に難しいものだといわれているので…。こちらではもちろん、英語もよく通じます。でもやはり生活する以上、“この国の言語”を取得しなければ…と思い、語学学校に通い、毎日毎日、大学受験生並に勉強しました。
特に医学用語は難しい。我が家では、というか、この国では不妊クリニックへの通院も、“夫婦揃ってが当たり前”な感じなので、最初の頃は夫がドクターの説明を私に英語で通訳するという状態でした。それでも例えば、診察台に上がっている時など、ドクターがモニターを見ながら何かを言っているけど、私には全くチンプンカンプン。頭の上には「?」マークが大量に飛び交うだけ…そんな時は本当に緊張するし、大きな不安も感じました。医学や不妊用語なんて日本語でだって理解が難しいのに…。だから言葉の壁を最も深刻に感じてしまったのは、「自分が病気の時」そして「不妊治療の時」、つまり自分の心や体がとても弱っている時なのでした。
「家庭やプライベート第一主義」であるヨーロッパ。日本のビジネスマンには考えられないことでしょうが、うちの夫は仕事から抜け出しては毎回、不妊クリニックに付き添ってくれます。採卵の間も夫は診察台の横に座り、私の手を握ったり、頭をなでたりしながら応援してくれます。不妊治療は女性だけが苦しむものではない! 夫婦が力を合わせ、プロジェクトを進めていく!
これって本当にありがたいし、つくづく大切だと思うし、何よりも不妊治療を通じて、ますます夫婦の絆が深まったとも感じています。

ところで、日本とこの国を比べて感じた、「不妊を取り巻く環境の違い」について書いてみたいのですが…。
私が通うAクリニック。一歩中に入ると、そこはまるでホテルのロビーか、はたまたお洒落なカフェのような雰囲気。コーヒーに紅茶にココア、そして、マフィンやキャンディー、チョコレート…と、自由にいただける飲み物やお菓子がいつも嬉しい。そして、この国有数の実績を持つ不妊クリニックとして有名です。
またフィンランドでは、どの分野でも女性が大いに活躍しています。大統領も女性だし、女性の社長さん、女医さんなどもとても多い。Aクリニックのドクターたちもほとんどが女医さんです。もちろん私の主治医も。第一子はこのクリニックのおかげで、タイミング〜AIHを経て、3度目のICSIで42歳の時に授かりました。その前には子宮外妊娠も経験しました。

そして昨年、また2人目が欲しくて治療を再開した時のこと。どうしても子どもの面倒を見てもらえるような人も場所もないので、仕方なく子ども同伴で通院せざるを得ませんでした。
日本の不妊専門クリニックでは「お子さま連れはご遠慮ください」 という所が多いと聞いています。 それに私も、“そうしなければならない理由”がわかるつもりです。 不妊治療中は妊婦さんや赤ちゃんなどを見るのが、とってもつらい時があるから… 他人の妊娠なんて喜べないような、不安で苦しい気持ちで病院の待合室に座ることが多いから…。
だから私は、事前にAクリニックに子ども同伴でも良いか? と尋ねてみました。そしたら、どうしてそんな質問をするの? とでもいうような驚いた表情で、 「もちろんOKよ!」との返事。 そのうえに、待合室のど真ん中には子どもが遊べる玩具があれこれ用意されており、 つまり子ども同伴はノープロブレムという訳なのです。
私は夫に思わず聞いてみました。 「この国の女性たちって、自分が治療中に小さな子どもを見たりするのはつらくないのかな?」 すると夫曰く、「“つらくなる”というよりは、“励まされる”と思う人のほうが多いんじゃないかな? 私たちも絶対に頑張ろう!ってね」 ふむふむ、なるほどフィンランド人たちはポジティブで心が強いのかぁ〜と思った瞬間でした。

またこの国では、治療のカミングアウトにしても、高年齢で子どもを望むということに関しても、周りの偏見や理解のなさを感じたことは今のところ一度もありません。「もうこんな歳だから」と不妊治療に対して後ろ向きになっている私に、「やってみなきゃわからないじゃない! 頑張ってみようよ!」と背中を押してくれたのは、私の主治医であり、そして周りの温かい環境でもありました。

私にこのAクリニックを紹介してくれた仲良しの友人Tは、私とは比べ物にならないほどの長い長い不妊治療の年月を経て一人息子を授かりました。2度の子宮外妊娠により、両卵管も摘出。そして何度もの採卵、移植も上手くいかず、もう子どもを諦める方向に考え始め、養子縁組の手続きも始めていました。
でも、残っていた“最後の凍結胚”を移植し、奇跡の妊娠、そして無事出産。その息子さんは今年で9歳になります。
私がTと知り合ったのは、私たち夫婦がまだ新婚当時の約6年前。もともと、T夫妻は私の夫の親友です。ある日、まだお友だちになって間もない私にTは明るく、笑顔でアッサリとこう言いました。「ウチの息子、冷凍庫に眠ってたのよ〜(=凍結胚)」と。
その当時はまさか自分たちが不妊治療のお世話になるとは、これっぽっちも予想すらしていなかったし、不妊治療や、ましてや体外受精のことなどに全くの無知だった私は、それがどういう意味かもわかりませんでした。でも彼女が乗り越えてきたハードな治療経験談を聞き、私は不思議と何の偏見も持たず、彼女の言葉を心で自然に受け止めることができました。彼女の過去の苦労は、今現在の最高の幸せが帳消しにしているな…とも思ったものです。
そしてその後、このTの存在は、私が治療に苦しんでいた時、子宮外妊娠でせっかく宿った命をお空にかえし、自暴自棄になっていた時にも、大きな心の支え、そして目標となりました。
ネットの掲示板などの投稿でよく見かけるのは、「治療のカミングアウトができない」と悩んでいる方が、日本にはたくさんいるということ。カミングアウトができない状況、つまり、カミングアウトしても、“理解してもらえないどころか、偏見の目で見られるに違いない”という不安を生む、周りの環境なのでしょうか。私自身、こちらの国では治療のことを職場や周りには安心してカミングアウトしています。ましてや、「子どもはまだ?」「どうして子ども作らないの?」「不妊治療なんてリスクが大きいんじゃないの?」「40代で妊娠なんて無理でしょう?」・・etc、そんな心ない言葉を投げかけられて傷ついたりしたことは1度もありませんでした。
またこちらでは、“子どもがいる家庭だけが家族の単位じゃない”ってこと。この国は同棲率、離婚率などがとても高いため、「家族の形」は本当にさまざまなのです。精子卵子提供、代理母、特に養子縁組などに関しても特別視されていないため、よその家族構成なんて、いちいち気にしていられないし、他人が干渉すべきではないと皆が心得ているように思えます。だからつくづく、こういう環境にいられることに私は感謝しています。

最後に。私にとって、遠い日本から発信されるFineのウェブサイトは本当に大きな心の支えでした。もちろん今でも。フィンランドにこのような団体があるのかどうかはよくわかりません。でもまるで日本に住んでいるかのように身近に感じられる、母国語で読めるFineにはいつも、苦しかった心を軽くしてもらっていました。「つらいのは自分だけじゃないんだ!」「ひとりぼっちじゃないんだ!」と。Fineの運営にご尽力くださっているスタッフの方々に改めて感謝の気持ちを伝えたいです。ありがとうございました!!

「夫と歩む不妊治療」
妻:かのんさん

きっとこれを読む誰もが過去に感じたであろうように、私も結婚すればすぐに子どもができると思っていました。多くの人が簡単に、普通に成しえていることが、私にはできないという現実が本当に私を苦しめました。
子どもも生めないのに生きている価値があるのか、女として妻として、人として存在する意味がわからなくなったことも、夫や夫の両親に対しても申し訳ない気持ちでいっぱいになり「はずれクジを引かせてしまった」と感じ、離婚を考えたこともありました。
自分の親が、親戚や近所の人との孫の話題に混じれない様子を見れば胸が引き裂かれそうな気持ちになり、親から、先祖から受け継いできた命を私で止めてしまう責任に耐えられず、消えてなくなりたいと思ったこともあります。
今までの人生では夢や目標など、大抵のことは自分の努力によって手に入れることができると教えられてきたし、実際にそうやって叶えてきた夢が多くあります。だから、子どもができないということは、人生において最初で最大の挫折でした。
世の中にこんなに苦しい悩みがあるのかと、なぜこんなにも望んで、いろんなことを我慢して、努力をしているのに叶えられないことがあるのかと、人生は不公平だと神様を恨んでいました。
友人の妊娠を知れば心から祝えない、羨ましくて真っ直ぐに顔も見られない。芸能人の妊娠でさえ心中穏やかではいられない。そんな心の持ち主だから神様は私を母にしてくれないのだと自分を責め、嫌いになり、全てにおいての自信を失っていきました。
その頃の私は将来が不安で怖くてたまりませんでした。できるかできないかもわからないまだ見ぬ子どものために大金をつぎ込み、貯金はなく、夢だったマイホームなんて手に入れるどころじゃない、いろんなことを我慢して、治療を最優先するために仕事を辞め、これで子どもができれば報われるけど、子どもができなかった時の私には、仕事も貯金もマイホームも何にも残らない。それが本当に怖かったのです。
ある時、その不安を夫にぶつけて泣きました。すると、夫は今まで見せたことのない悲しい顔で「俺がおるだけじゃあかんか?」そう言いました。
私はその言葉で私の中の何かが変わりました。
こんなにも私を思ってくれる大切な存在がいるのに、辛い不妊治療を一人で戦っているような気持ちになり、真っ暗な長くて出口の見えないトンネルを一人で彷徨っていると思っていました。

でも私が真っ直ぐ勇気をだして一歩踏み出せるように、いつでも後ろから支えていてくれていた夫、足元の石ころを私が踏まないように、段差でつまずかないように、いつでも気を配ってくれていた夫の存在に、この時ようやく気が付くことができました。
私は不妊治療にのめり込むあまりに、純粋に子どもが欲しいという気持ちを忘れ、自分の存在価値を見出すため、劣等感を埋めるために子どもを得ようとしていた気がします。夫婦あっての子どもなのだということ。そのことに気付けてから、私は今でもあの頃と変わらず、子どもも貯金もマイホームも仕事もないけど、夫がいてくれるだけで不安に思うことはなくなりました。そしていつでも私と一緒にいてくれる夫に対して感謝し、尊敬し、信頼の気持ちが溢れてくるようになりました。

不妊治療では本当にたくさんの涙を流しました。
でも、この経験がなかったら今でも私はきっと我儘で傲慢だった気がします。しかし不妊治療を経験できたおかげで、私は一つ優しくなれたのではないかと思うのです。この経験のおかげで命に向き合い、自分のことや自分の大切な人たちのこと、すれ違うだけの人の命や植物の命さえ本当に愛おしく思えるようになりました。私は一人で生きているのではなく、多くの人に見守られ支えられ、生かされているのだということを知りました。
親に感謝し、命を与えてくれたご先祖さまに感謝し、そして今を精一杯生き抜こうと思えるようになりました。自信を失い生きる意味もわからなくなっていた私が、自分の人生を自分で輝かせようと思いはじめました。
不妊治療という経験は、人として一つ成長するために私には必要な経験だったように思います。
世の中に必ず誰かが割り当てられなければいけない試練があるとしたら、きっと神様はそれを乗り越えられる人を選び、「申し訳ないけどあなたにお願いします」と与えているような気がします(笑)。だから乗り越えられない試練はきっとないと思うのです。いってみれば私たちは神様に見込まれた、選ばれた絆で結ばれた二人なのだから。

私は思います。
人はそれぞれ小さな川を、小さな船に乗って進んでいます。
そして夫婦となる人と出会い、小さな川が交わって少し大きな川になります。以前の私はその大きくなった川を渡るためには、大きな船にして夫婦は同じ船に乗るものだと思っていました。しかし二人同じ船に乗っていてはなにかトラブルがあった時、二人とも溺れてしまいます。

実際、私たちも何度も何度も沈没しそうな船に乗っていました。
「私は前に進もうと頑張っているのに、何であなたは余所見をして休んでいるの?」「なぜ一緒にいるのに、私の気持ちをわかってくれないの?」同じ船に乗っていた時はそんなケンカばかりしていました。
ところが別の船に乗って、お互いの気配を感じる距離で自分のペースで船を漕げば「あぁ今疲れているのかな」「私を待っていてくれるからあそこまで頑張ろう」とか、お互いを気遣う気持ちが生まれてきます。またどちらかの船が沈没しそうなら自分の船に引き上げてやることもできます。
川岸の花を摘みに寄り道したりお昼寝したり、キレイな夕焼けを見つけたら一緒に眺めて、魚が釣れたら一緒に食べて、でも同じ川でも別々の船に乗る。お互いの力を信じ、それぞれが自分の力で生きていく。夫婦ってそうやっていくものなのだと今は思います。
不妊治療も同じで、同じ目的に向かって進んでいくけど、私は私の、夫は夫の楽しみを見つけながら、時には励まして、時には一緒に感動して、日差しが強ければ私が日傘を貸してあげ、流れが強ければ穏やかな場所まで夫に引っ張っていってもらう。
途中で目的地が変わったとしても、夫と二人で辿り着いた場所が私たちのゴールなのだと胸を張ればいいのです。
一緒に同じ川を渡ってきた、その過程が一番大事なのだと思います。

私の母はよく「二人が仲良くいてくれることが一番幸せ」と私に言います。先日、夫の実家へ帰省した際に同じことを義母から言われました。本当にありがたい言葉です。感謝の気持ちでいっぱいです。その日、そんな話をしながら義母と夫と3人で泣きました。私はこの日のことを一生忘れないと思います。
私たちは、もしかすると次の代に命を繋げないかもしれません。でも、私たちが二人仲良くいることが親孝行になるのなら、これから先も親孝行をしていける自信があります。

不妊治療という経験があったから気が付けたこと。
【感謝すること】【尊敬すること】【信頼すること】いつでもこの気持ちを忘れずに夫と歩む不妊治療、それが私の「ふぁいん・すたいる」。

「夫が妻にできること」
夫:かずやんさん

私たち夫婦は不妊治療をはじめて8年目で、今も継続中です。今日までの7年間を振り返ってみるとたくさんの出来事がありました。妻の涙を何度見たことでしょう。些細な喧嘩から、もう戻れないのではないかと思うほどの喧嘩まで受精卵の写真や妊娠検査薬を一緒に見て一喜一憂したり、病院からの帰り道、二人で涙を堪えながら無言で帰宅したり、言い始めたらきりがないほどにいろんなことがありました。

治療を始めて5年程経った頃からでしょうか。私たちは不妊に対して考え方が徐々に変わり始めてきました。
まず変わったのは妻のほうです。妻は【不妊】ということを受け入れられたことが大きな変化だったといいます。まだ受け入れられない時は「ちょっと治療すればすぐに子どもが授かるであろう」とか、「私は他の人よりほんの少しできにくいだけ」と、【不妊】という言葉を受け入れることができなかったといいます。
長い治療の末に辿り着いた【不妊】であると受け入れられたこと、これがその後の治療に向かい合う中でも、前より気持ちが楽に思えるようになったようです。そして受け入れられるようになってから、苦しかった頃は見えなかったことが見えるようになってきたようで、色々と【気づき】があり、人として何が大事なのかを学び始めたようです。

反対に私はというと、まだまだ【気づき】にはほど遠く、治療に一緒に付いて行かないと文句を言われるからとか、家事を手伝わないと喧嘩になるからとか相手を思いやる気持ちより自分可愛さで、核心から逃げている状態でした。
治療が進む中でどうしても負担は妻が多くなり、自然に妻だけが頑張る状況になっていきました。先生から治療の計画を確認されても、日頃から夫婦で話し合っていないと、大きな決断を妻が自分の判断でしなければいけないことも出てきたでしょう。私に話しても、治療の内容など理解ができずに、「君に任せるよ、好きにしたらええ」 「先生がそうしたほうがいいと言うならそうしよう」などと、どこか他人事。そのことで妻との喧嘩も多くありました。
私は治療を始めた当初から協力してきたつもりです。妻の体調がよくない時は私が食事の支度をしました。掃除ができなければ何も言わず私が行ない、腰が痛いと言えばマッサージをし、検査や通院にも進んで付き添いました。

ただ、そういった【協力】には限界がありました。妻は私たちの子どもを授かろうと必死で治療をしています。体外受精の周期では、ほぼ毎日の注射。しかも筋肉注射という男では到底耐えられない痛みの注射を毎日毎日耐えているのも知っています。片道2時間かかる通院で体がシンドイことも知っています。
私に対しては口に出さないけれど後ろめたい気持ちでいるのも知っています。
近くの産婦人科で、注射だけを打ってもらうのに、妊婦さんと一緒に待合にいなければいけない辛さも知っています。治療のために節約に励み、いろんなことを我慢していることも知っています。
誰も悪くない。妻も辛いが、私も辛い。でもそれは、誰が悪い訳でもないのです。
そう思えるようになってからは「やらなければいけない」から「やってあげたい」に変わっていきました。
通院に付き添う、家事をする、働く、これらは気持ちが入ってなくてもできることであって、それはただの【協力】にすぎません。だが治療に協力するのではなくて、治療を一緒にするってことが必要なのではないのか? そう思い始めたのです。
私は積極的に治療について質問するようになりました。すると、妻からはいろんな治療の内容や心境など、今まで聞けなかったことが聞けるようになりました。そして治療以外のことや将来のことなど、二人でよく語り合うようになっていきました。また、今まで私は、思いや考えを自分の中だけに留めて、自分で答えを出そうとすることが多く、よく妻からは「何を考えているのかわからない」と言われていました。しかし、私はどんどん考え途中のことでも妻に話すようにしました。すると全く違う視点からの回答や、思わぬ解決方法に気付くことができ、更に妻との会話が楽しく増えていきました。
今までギスギスしていた家庭の中が明るく楽しいものに変わっていきました。
頑張った治療の結果がダメだった時もそうです。間違っても「次があるじゃないか!」などとは言えません。今までの私はどうやって声をかけていいかわかりませんでした。でもただ手を繋いでみる。妻が好きなケーキを買って帰ってみる。そんなことを続けていたら、妻の表情や言動はみるみる変わっていきました。
励まされると自分だけが頑張らなければいけないように感じてしまうようで、言葉などではなく一緒に不妊治療を戦っている、同じ気持ちなのだという実感が欲しかったと妻は言います。私が変わることで、妻の治療に対するストレスを一つ減らせたのではないかと思います。
治療に関してのストレスといえば経済的な問題も大きな割合を占めるのではないでしょうか。

実際に私たちも7年という治療歴の中で多くのお金を使い大変な我慢をしてきました。治療はしたい、でもお金がない、歳はどんどんとってゆき焦る気持ちがつのる。これは大変なストレスで夫婦仲も悪くしかねません。
以前妻に「ごめんね・・・金食い虫で」と謝られたことがあります。
私は夫が妻にできることはこれではないかと思いました。痛い注射を代わってやることはできない、さまざまな検査を代わってやることはできない、でも、やりたいと思ったときにやりたい治療を、お金の心配をしないでさせてあげたい。お金がないからと諦めさせてしまうことはしたくない。

今、私たちはとても幸せです。妻と二人の生活がとても楽しい。今の我が家は会話が途絶えず笑顔が絶えない明るい家庭です。そう思えるのもお互いが同じ価値観で、そして同じ目標に向かって行動していることにあると思います。
今の私は妻に対して「やらなければいけない」から「やってあげたい」に変わり、それを苦ではなく行なうことができます。やってあげたいという気持ちは見返りを期待しませんが、それでも「ありがとう」と言われれば嬉しいもので我が家でお互いに忘れないのは「ありがとう」という言葉と気持ちです。
そして今ではあんなに辛かった時期の不妊治療でも今では二人「不妊治療を経験できてよかったね」と言い合っている程です。

私には初めてのIVFで、妻が受精卵を目にした時の「私たちの受精卵だよ!!
今4分割だって! 受精して小さな命が今必死に生きているんだよ! すごいね! すごいね!」と、興奮しながら私に写真を見せてくれた時の笑顔が忘れられません。不妊治療を始めてから、あんなに幸せそうな笑顔を見せてくれたのは初めてでした。私は医者ではない、直接私が治療をすることはできない。しかしだからこそできることがある。男だからできること、夫だからできること、これからもまだまだ試練は続くことでしょう。迷うことも、立ち止まることもきっと多いと思います。でも、私たちは二人でそれを必ず乗り越えてみせます。どんな時でも二人が笑顔でいられるように。

私たちが歩んできた長く辛かった不妊治療中心の生活。しかし、それは私たち夫婦だからこそ課せられたものだと考えます。この経験は貴重で、学ぶことは無限にある。そして私たちはまだその入り口に立っているにすぎません。
これからも二人一緒に学び続ける、これが私の「ふぁいん・すたいる」。

「不妊治療の一つの選択肢」
特別養子縁組で子どもを迎えた方の体験談

子どもができない? と感じたら、まずは不妊治療をしてみようと考えますよね?

実際、私も4年近く治療を行ないました。しかし、できない。こんなに頑張ってもできない。私は親になることはできないのか?

いろいろ考えました。不妊治療のゴールって妊娠・出産って思いがちですよね。

でも、その先には子育てが待っています。子育てだけを取り出して考えてみたら、実子でもそうでなくても、基本的には同じなのではないか?と気がつきました。

私は34歳の時に治療をやめて、養子を迎えましたが、今の時代この年齢から治療を始める方も多くいることでしょう。

私は結婚当初からもし子どもができなかったら、養子を迎えても良いと漠然と考えていましたが、多くの方はそうは思わないようです。

実際に実子以外の選択を模索しようとすると、年齢の壁がここにも立ちはだかり、泣く泣くあきらめたという方もいました。

私個人の経験からお話しさせていただくとしたら、「実子以外の選択」は不妊治療の一つの選択肢として早い段階から、ご夫婦で考えてもらいたい事柄の一つです。

治療を始めたばかりで、そんなことは全く考えていないから、と言っていると、自分のところに巡ってくるチャンスの前髪をつかみ損ねることもあるなぁと実感しています。

子どもは親を選んで産まれてくるって話がありますが、それは、実子であっても、養子・里子であっても、同じことなのではないでしょうか。

産むことも大変だと思いますが、それから始まる子育ての方が、何十倍も大変だ、という話はよく聞きます。

治療を始めたばかりの方も、治療に行き詰まっている方も、「実子以外の選択」を選択肢の一つにいれてみるのもいいかもしれません。

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